春香のお出掛け<前篇>



作 高良福三


序 雨の一刻館

 サー…。
細かい雨が降っている。大通りの公孫樹(いちょう)はすっかり葉を落とし、黒いアスファルトの上に黄色い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようになっている。道を行き交うひとびとも、どこかよそよそしく雨靄(もや)の中を足早に歩いている。一刻館の庭では、柊(ひいらぎ)南天がその蒼(あお)色を鮮やかにし、葉にたまった雨粒が滴るたびに頭(こうべ)を垂れている。管理人室の軒先に吊(つ)るされたテルテル坊主は雨垂れに濡(ぬ)れ、「へのへのもへじ」の文字も今一つ元気がない。
冬樹はちゃぶ台の上に頬杖(ほおづえ)をつきながら、先ほどから結露したサッシの外の様子をただぼんやりと眺めていた。
 「あぁ、はやくはれないかなぁ…」
雨脚は粛々(しゅくしゅく)として衰える気配を見せず、このまま永遠に降り続けるのではないかと思われた。
時は昼下がり。響子は館内清掃に余念がなく、春香はまだ学校から帰っていなかった。1号室は一の瀬が酔いつぶれていて静かだったし、4号室も留守のようだった。主を失った犬小屋はがらんとして、「SOICHIRO」と書かれた鉢には雨水が溜(た)まり、妙に寂しかった。しかし五代たちによって新たに植えられた槙(まき)の若苗は、逆にこの雨を喜んでいるようにも見えた。
 「う〜ん…」
雨を眺めていた冬樹は、段々と頭の中が煮つまってきていた。そしてちゃぶ台から立ち上がると、窓際に近づいて右手を素早く振り上げた。
 「あめよ、やめ!」
 サー…。
冬樹の掛け声にもかかわらず、雨は何事もなかったように降り続けた。館内清掃を終えた響子が管理人室に戻ってきた。
 「あら、何やってるの?」
 「いまね あめよ やめ!っていってたんだ」
 「そうね。早くやんで欲しいもんだわ。これじゃぁ、お洗たく物も乾きやしないし…」
外の物干し台が使えないため、響子は洗たく物を5号室に干していた。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋になっており、雨の日などは物干し部屋としても有効活用されていた。
響子は結露したサッシを開けて外を見た。冬樹も、響子のジーパンにより添うようにして外を見上げた。降り注ぐ雨の中、入母屋(いりもや)造りの屋根から小さな雫(しずく)がぽたりぽたりと落ちて来た。ときおり吹く風にテルテル坊主が揺れた。
 サー…。
雨は静かに時計坂の街を包んでいた。
 「ママ、あめ やまないの?」
 「…まだまだ降るみたいね」
響子は独り言のように呟(つぶや)いた。響子が黙ると、周り一面は静かな雨の音だけになった。
 「風邪引いちゃうわ。もう閉めましょう?」
響子の声が白く煙った。響子は冬樹に注意を促し、サッシを閉めた。するとその衝撃でサッシに付着した雨垂れが幾条(いくすじ)か流れた。
 「今日は冷えるわね」
10月の風は冷たかった。



一 ♪〜だんご三兄弟〜♪

 バタン…。
玄関の扉が開く音がした。
 「ただいまー」
 「あ、おねえちゃんだ」
冬樹は嬉しそうに叫んだ。春香は、胸まで伸びた髪を束ねて、ツインテールにしていた。水色のワンピースは、春香のお気に入りだ。しかしこの雨で服が湿り、春香は気持ち悪そうにしていた。
 「おかえりなさい」
響子が玄関まで出迎えた。春香は玄関の三和土(たたき)で響子に背を向けると、扉を開けて傘(かさ)をバタバタと開閉して露を払った。
 「あ〜、もう。やんなっちゃうわ」
春香はご機嫌斜めらしい。
 「早く上がったら?」
響子が上り框(がまち)に立っているので分かりにくいが、春香の身長は既に響子と同じくらいになっていた。
 「どうしたの?今日は遅かったじゃない」
 「部活だったのよ」
 「こんな雨なのに?」
 「だって発明クラブだもん。雨は関係ないでしょ?」
 「発明ねぇ…あなたも変なクラブに入ったわね」
 「それはあたしの勝手ですぅ」
 「まぁ、それはそうだけど…」
そこへ冬樹がやって来た。
 「おねえちゃん」
 「あら、冬樹。ただいま」
 「おねえちゃんのはつめいで”てんきよほう”やってよ」
 「天気予報?」
 「だって あめばっかりで そとであそべないもん」
 「あんたは、テルテル坊主ぶらさげてるから、それでいいじゃないの」
 「でも やまないよ」
冬樹は人懐(なつ)っこく春香の手を引いた。
 「ねぇ おねえちゃ〜ん はつめいしてよ〜」
 「やーよ。TVで天気予報でも見れば?それでいいじゃない」
 「テレビはむずかしくて わかんないよー」
 「それはあんたがバカだからじゃない?」
 「あー!? バカっていった。バカっていったら いったひとがバカなんだよ」
 「そんなことないわよ」
ふたりの語調は段々と勢いをましてきた。見かねた響子が仲裁に入った。
 「あなたたち、喧嘩(けんか)は止めなさい」
 「だって…」
 「春香」
響子は優しく諭した。
 「春香はおねえちゃんでしょ?」
春香は響子に聞こえないようにして、口を尖(とが)らせた。
 「好きでおねえちゃんになった訳じゃないもん」
 「ほら、ふたりとも。その辺にしてお部屋に行きましょう?」
 「おやつがあるわよ」
 「やったー♪」
冬樹は小躍りした。春香はおやつに釣られた訳ではないが、この場は大人しく響子に従った。今日のおやつはザラ目のついた煎餅(せんべい)だった。
 「ママ、もうちょっとマシな物ないの?」
春香はしけたせんべいを頬(ほお)ばりながら不満をぶつけた。冬樹は甘い物が食べられて満足だった。
 「我慢なさい。家は貧乏なんだからね」
 「はいはい。分かりました」
春香は諦(あきら)めたように目を瞑(つむ)った。
 「春香はお利口さんね」
響子が春香に茶を淹(い)れた。
 「ぼくも ぼくもー」
冬樹が茶を欲しがった。
 「ダメよ、子供がお茶なんか。あなたは麦茶で我慢しなさい」
 「ぶー…」
冬樹はふてくされた。
冬樹は、近頃、何でも春香の真似をしたがるようになっていた。傍(はた)から見ていると、まるで春香と競い合っているかのようだった。そんなときは大抵の場合、春香が折れて冬樹の要求は受け入れられたが、今のようにままならないことも、少なからずあった。
春香は、響子の見ていないところで「べ〜っ」と冬樹に舌を出した。響子は麦茶をついで冬樹に出した。
 「はい、どうぞ」
冬樹は響子に懸命に訴えた。
 「ママ、いまおねえちゃんが”べ〜っ”て…」
響子が春香の方を向くと、春香はとぼけた。
 「あたし、してないわよ」
 「……」
響子は黙ったまま、春香をじっと威嚇(いかく)してから、何事もなかったように煎餅(せんべい)を齧(かじ)って驚いた。
 「あらやだ。ホントこれ、湿気てるわね」
 「ほら、あたしが言ったとおりじゃない」
 「ごめんなさいね」
 「だって家は貧ボウなんでしょ?」
 「春香、そんな意地悪言わないでよ。ママが悪かったわ」
春香は少しだけ溜飲(りゅういん)の下がる思いがした。
 「TVでも観ましょうか」
ばつの悪い響子は、必死にその場を取り繕(つくろ)った。NHKでは「みんなのうた」がやっていた。TVからはタンゴのリズムが流れてきた。
 「あー! ”だんごさんきょうだい”だー☆」
冬樹は、大好きな歌が流れて大はしゃぎだった。
 「♪〜だんごっだんごっ、だんごさんきょ〜だい、だんごっ〜♪」
冬樹は得意になって、自分が創作した踊りに興じていた。
 「冬樹、とっても上手よ」
響子は手を叩いて誉めた。場の雰囲気(ふんいき)が何とか和んだので、響子は安堵(あんど)した。
 「じゃぁ、そろそろママ、お夕食の買い物に行って来ようかしら。春香、冬樹とお留守番、お願いね」
 「は〜い」
いつものことなので、春香は素直に承諾(しょうだく)した。響子はPIYOPIYOエプロンを外して財布を持った。
 「じゃ、いってきま〜す」
管理人室のドアがパタンと閉まると、暫(しばら)く沈黙が続いた。冬樹はまだ踊りに夢中だった。春香は気だるそうに冬樹を見下した。
 「…あんたって、ホントにお気楽ね」
踊っている冬樹が尋ねた。
 「おきらくって なに?」
 「分からなくたって別にいいのよ」
TVの「だんご三兄弟」は冬樹の喝采(かっさい)の内に終了した。
 「♪〜だんごっだんごっ〜♪」
番組が終わっても、冬樹はまだ楽しそうに踊っていた。春香は立ち上がって言った。
 「さぁてと、宿題でもしよ」
春香はランドセルから算数の教科書とノートを取り出すと、右手の二の腕をもみながら、肩のこりを解(ほぐ)していた。
 ジリリリン…。
すると突然、部屋の入口にある黒電話が鳴った。春香は電話に対応した。
 「もしもし、五代ですが…」
 「お、春香ちゃんかね?わしだよ」
 「あ☆ 音無のおじいちゃん」
 「そうだよ。元気かな?」
 「はい☆ 元気です」
春香は大好きな音無老人からの電話に、すっかり機嫌を好くした。
 「春香ちゃん、響子さんはいるかね?」
 「えっと、母はいま買い物に行って留守です」
 「そうか…お留守番か。偉いなぁ」
 「いえ☆ そんな」
 「じゃ、また電話するから、響子さんに宜しく言っといておくれ」
 「はい☆ さようなら」
 チン…。
春香は受話器を置くと、嬉々として算数の教科書を開き直し、鼻歌を交えながら宿題を始めた。そんな春香の豹変(ひょうへん)振りを、冬樹はぽかんと見つめていた。



ニ おやつ

今日は暫く振りに晴れた。天は高く、羊雲がどこまでも続いていた。時計坂小学校では、児童たちがある話題で盛り上がっていた。
 「今度の社会科見学、どうする?」
 「どうするって?」
 「国会議事堂に行くじゃん。小渕(おぶち)さんに会えるかな?」
 「お前、ばっかじゃないの?」
 「何で総理大臣がわざわざ小学生に会うんだよ」
 「お前、そんなにえらいのかよ」
 「そうだよ。どうせおれたち、中をちょっとだけ見学しておしまいだよ」
 「えー!? そうなの?それじゃぁ、つまんないじゃん」
 「そんなあんま期待するなって」
 「それじゃぁさ、東京タワー。あれには上るんだよね?」
 「そうだよ」
 「東京タワーからおれの家、見えるかな?」
 「さぁ? その日の天気によるんじゃねぇか?」
 「あぁ、明日晴れるといいなぁ」
 「晴れたら、日比谷公園でおべんと食べるんだろ?」
そこへ担任の教諭が教室に入って来た。
 「ほらほら、お前たち。もう授業は始まっているぞー」
児童たちは一向に喋(しゃべ)るのを止めなかった。教諭は怒って教卓を出欠簿で敲(たた)いた。
 「ここは何処(どこ)だ? 俺は誰だ?」
児童たちはきまり悪く小声で「教室でーす」「担任でーす」と言いながら、そそくさと席に着いた。
 「全く、お前たちがそんな態度じゃ、今度の社会科見学は取り止めてもらうかな」
 『えー!?』
教室中にブーイングが響いた。教諭は泰然(たいぜん)として社会科見学の説明を始めた。
 「明日、皆が待ちに待っていた社会科見学があります。委員長、栞(しおり)配って…」
男女の委員長は教諭から「社会科見学の栞」を受取ると、素早く児童全員に配布した。
 「まぁ、見学の方はそこにあるとおりだから別に問題ないんだが、晴れたら昼は、日比谷公園でお弁当を食べます。各自、弁当を忘れず持参するように」
 『はーい』
すると児童のひとりが立ち上がった。
 「先生、おやつはいくらまでですか?」
 「んー? おやつか? おやつはひとり500円以内だ」
すると別の児童が立ち上がった。
 「バナナはおやつに入るんですか?」
どっと笑う者、隣同士でに何かを相談する者。教室は一挙に、蜂(はち)の巣を突ついたように騒然となった。
 「お前ら、もう5年生なんだから、それくらい分かるだろう。常識の範囲で持って来るように」
 「常識って言われてもなぁ」
 「ママが焼いたケーキはタダよね?きっと」
教諭は呆(あき)れて暫(しばら)く黙っていたが、最終的には児童たちに妥協(だきょう)した。
「まぁ、とにかくおやつは、お父さんやお母さんと相談して持って来い。いいな?」
おやつの議論は一定の見解が固まった。春香は少し心配だった。
《ウチは貧ボウだからな…。おやつっていっても、大した物買ってもらえないんだろうな》
春香は盗むように周くんの方を見た。周くんは余裕綽綽(しゃくしゃく)の表情で、教諭の説明を聞いていた。
《周くんは、どんなおやつ持って来るんだろう?》
帰り途(みち)、春香は憂鬱(ゆううつ)だった。
「家は貧乏なんだからね」
響子の声が頭の中でこだましていた。
「はぁ〜あ」
春香は溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「どうしたの? 春かちゃん、元気ないよ」
周くんはあっけらかんとして尋ねた。
 「ん…何でもないの」
春香はさすがに、おやつのことが心配だとは言えなかった。
 「ただいま…」
春香は足取りも重く、玄関の扉を開けた。
 「おかえりなさい」
いつものように響子が出迎えた。
 「ママ、あのさぁ…」
春香はちょっと言いかけて黙ってしまった。
 「どうしたの?」
響子は春香の元気のなさを心配した。
 「明日、社会科見学があるんだけどね…」
 「あぁ、それならこの間もらったプリント、読んだわ」
 「それがどうしたの?」
春香は躊躇(ためら)うように響子を見て言った。
 「おやつがさぁ、ひとり500円以内っていうんだけど、ウチはおやつなんて無理だよね」
 「あぁ、そんなこと…」
響子はにっこり微笑(ほほえ)んで見せた。
 「今、ケーキ焼いてるのよ」
春香の顔が明るくなった。
 「え!? ホント?」
響子は笑った。
 「大丈夫よ。春香に恥ずかしい思いはさせないわ」
春香は喜んだ。
 「じゃぁ、バナナも?」
 「えぇ。ちゃんと買ってあります」
 「わー☆」
 「でもその代わり、おやつの上限は300円よ。分かった?」
 「よかった〜。それだけあれば、おやつなんてちょっとでいいわ」
 「一回目に焼いたケーキは、いま冬樹が食べてるけど、あなたどうする? 食べる? それともおやつ、買いに行く?」
春香は元気よく答えた。
 「食べるー☆」
響子は、春香が元気になって安心した。
 「じゃぁ、手を洗って、早くお部屋にいらっしゃい?」
春香は脱いだ靴を揃(そろ)えると、喜び勇んで真っ直ぐ洗面台に向かった。
 「やれやれ…。これで一段落ね」
響子は二回目のケーキの焼け具合を見るために、先に管理人室に入った。
 「あらって来たよ☆」
春香はランドセルを部屋の隅(すみ)に置くと、ちゃぶ台に着いた。冬樹はケーキをぽろぽろとこぼしながら、無心に食べていた。
 「冬樹☆」
 「あ、おねえちゃん。おかえりなさい」
 「ただいま。どう?ケーキ、おいしい?」
 「うん♪ とっても」
春香は冬樹の表情を確認すると、自分もうれしくなってケーキが焼き上がるのを待つことにした。管理人室は、ケーキの甘ったるい匂いが充満し、焼き上がりが間もないことを知らせていた。
 「はい。焼けましたよ」
 「わー☆」
春香は無水鍋(なべ)から取り出された蒸しケーキを見て、思わず唾(つば)を飲んだ。
 「おいしそう…」
響子は得意そうに胸を張った。
 「そりゃぁ、ママが作ったんですもの」
 「さすがママね」
 「春香。味見、してみるわよね?」
 「もちろん!」
春香は一切れの蒸しケーキにかぶりついた。やわらかいスポンジから、何とも言えない卵のいい匂いが口いっぱいに広がった。
 「おいしいー!」
 「ね? おねえちゃん おいしいでしょ?」
冬樹は自分でケーキを作った訳でもないのに、得意気だった。
 「何よ。あんたが作ったんじゃないのに!」
春香は、冬樹の頬(ほお)をいたずらっぽく抓(つね)った。
 「いててて…おねえちゃん いたいよ」
今日の春香は寛大だった。
 「いいわよ、冬樹。今日は許してあげる」
 「うん おねえちゃん いっしょにたべよ」
ふたりは仲良く響子の蒸しケーキを堪能(たんのう)した。



三 大器早成

食後、響子と春香は紅茶を飲み、冬樹は絵本を眺めだした。響子は管理人の仕事をするから、と言って席を立ち、春香がひとり残された。春香は何気なくサッシの外を見た。今まで青かった空が白ばみ、まさに日が暮れようとしていた。春香が二階の物干し台に出て見ると、陰翳(いんえい)の蒙(くら)い多摩の山山に、赫々(あかあか)とした夕陽が沈もうとしていた。明日は晴れそうだ。春香は物干し台にちょこんと座って、暫く夕陽が沈んでいくのを眺めていた。
 カー、カー…。
烏(からす)がねぐらに帰る声が響き、点々と灯りが点(つ)いた家々の間を、西武線が一直線に走っていた。眼下に見下ろす時計坂駅に、一本の電車が吸い込まれて行った。
 パーン…。
急行電車だろうか、駅を通過する電車から、力強いクラクションの音が風に乗って聞こえてきた。
 ぱーぷー…。
向こうから見えない豆腐屋の喇叭(らっぱ)が聞こえた。今にも沈みきろうとしている太陽に向かって、春香は大声で言った。
 「あーした天気になーれ!」
夕陽が沈んだ。空は東雲(しののめ)色になり、夜の帳(とばり)が静かに降りて来た。春香は念のため、テルテル坊主を作ることにした。そこで5号室に寄って適当な端切(はぎれ)を探した。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋だが、その他の細々とした物も仕舞ってあるのだ。その中で春香は、青いストライプの端切を選んだ。
 「これにしよっと♪」
春香が5号室から出て、ドアを閉めようとしたとき、階下(した)から一の瀬の声が聞こえてきた。
 「あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…」
今日も住人主導による宴会が始まっているらしかった。春香はその声に微笑(ほほえ)むと、端切を持って管理人室に向かった。
 「んもう、皆さん。家はご飯もまだ食べてないんですよ!」
響子が必死になって住人たちを説き伏せようとする声が、管理人室のドアから漏(も)れ聞こえた。
 《やってる、やってる♪》
春香は宴会が大好きだった。今日の夕食は楽しくなりそうだ。管理人室のドアを開けると、そこでは滑稽(こっけい)な情景が繰り広げられていた。おたまを振り回して怒る響子、両手に扇子を持って踊る一の瀬、それをほっかむり姿で喜ぶ四谷、そして我関せずという風に絵本を眺めている冬樹。
 「ママー♪」
春香は楽しそうに宴会の輪の中に入った。
 「あら、あなた、どこ行ってたの?」
 「えっへへー。ひ・み・つ♪」
春香はツインテールの髪を指でくるくる巻きながら答えた。
 「ねぇ、いらない新聞紙、ない?」
響子は部屋の隅(すみ)の紙袋を指さした。
 「あそこに昨日までの新聞が入ってるから、好きなのを使いなさい」
 「はーい☆」
春香は、先ほどの端切に新聞紙を詰めて、テルテル坊主を作ろうとしているようだった。響子や住人たちが見守る中、春香は、新聞紙を丸めて端切で包み、輪ゴムで丹念にくくり、「へのへのもへじ」と顔を描いてから、脚立(きゃたつ)に登って、ビニール紐(ひも)で軒先に吊(つる)した。
 「これで良しっと」
春香は両手をパンパンと叩(はた)いて、手についた塵埃(ほこり)を落とした。軒先に冬樹と春香のふたつのテルテル坊主が並んだ。
 「春香ちゅわん、何をなさっているんですか〜?」
四谷が尋ねた。春香は嬉々として答えた。
 「明日、社会科見学に行くの。だから作ったのよ☆」
 「な〜るほど…。でも社会科見学ってそんなに楽しみなんですか?」
 「ううん。晴れたら、日比谷公園でお弁当を食べるの☆」
 「さいですか。あした晴れるといいですな」
 「ありがと☆ 四谷さん」
そこへすかさず一の瀬が音頭(おんど)を取った。
 「じゃぁ、明日晴れることを祈って、かんぱ〜い!」
 『かんぱ〜い☆』
春香を含めた三人が乾杯をした。それを見て響子が周章(うろた)えた。
 「ちょ、ちょっと、春香。あなた、お夕食まだでしょ?」
 「いいじゃないのさ、管理人さん。堅いこと、言いっこなしだよ」
 「そうよ。言いっこなしよ☆」
 「これ! 春香!」
 「いいじゃない、ママ。みんなで一緒にお夕食、食べようよ」
それを聞いた四谷が涙を流して喜んだ。
 「そうだべぇ、管理人さん。春香ちゅわんの言うとおりなのっしゃ。皆で一緒に食べた方が楽しゅうございますよ」
 「四谷さん!」
 しゅー…。
そのとき火にかけた鍋(なべ)が吹きだした。
 「きゃー、たーいへん」
響子は慌ててコンロの火を落とした。
 「管理人さんも往生際(おうじょうぎわ)が悪いねぇ。晩飯なんてどうでもいいから、あんたもこっち来て飲みなよぉ」
 「いい加減にしてください!」
響子が怒鳴ったときだった。
 「あの…、ただいま…」
五代が恐る恐る管理人室のドアを開けて覗(のぞ)いていた。響子は頬(ほお)を赤らめた。
 「あら、おかえりなさい…あなた」
五代は言い訳した。
 「玄関で何度も声かけたんだけど…、何か騒がしいようだったから…」
 「そうでしたの。ごめんなさいね」
 「いやぁ…あはあは…」
五代は頼りなさそうに頭を掻(か)いた。
 「よぉし! これでフルメンバーだぁ。それっ! かんぱーい」
一の瀬がまた音頭を取った。
 『かんぱーい☆』
また三人が乾杯した。
 「いやぁ、あっはっは…」
四谷が哄笑(こうしょう)した。
 「あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…」
 「おばさん、がんばってぇ」
春香の異様な乗りのよさに、五代と響子は閉口した。
 《何なんだ、こいつは…》
一方、先ほどからずっとひとりで絵本を眺めていた冬樹が、急に五代たちの方に向いた。
 「ママ、ごはん、まだ?」
 《こいつは将来、大物になるな…》
五代は内心そう思った。その日の夕食は、宴会と区別がつかないまま、終わってしまった。



四 国会議事堂

次の日は絶好の行楽日和(びより)だった。青空はどこまでも高く、風も穏やかで、昨日より少しだけあたたかい感じがした。時計坂小学校のグラウンドでは、サッカー部が朝練の真っ最中だった。その周りでは、縄跳びをしたり、一輪車に乗ったりしている児童が、ちらほらと見えた。春香たち乗せる大型バスは既に、小学校の正門に横づけされていた。春香たちはクラス毎(ごと)に整列し、学級委員が点呼を取っていた。全員が揃(そろ)うと、校長が挨拶(あいさつ)をした。
 「皆さん、おはようございます。本日は晴天に恵まれ、絶好の見学日和となりました…」
嬉しくて昂揚(こうよう)した春香が、友人の女子に囁(ささや)いた。
 「見学日和だって。そんな日和、あるのかなぁ」
 「ホントだね…ふふっ」
すると担任の教諭の注意が飛んだ。
 「ほら、そこ! 喋(しゃべ)らない!」
春香は、教諭に見えないように舌を出して、友人とくすくす笑い合った。
いよいよバスが出発した。春香たちを乗せたバスは、大した渋滞(じゅうたい)に遭(あ)うこともなく、順調に都心へ向かった。ところが明治通りを越えた辺りに来ると、途端にバスは進まなくなった。それは都心特有の自然渋滞だった。春香は都心の車の多さに驚いた。
 「うわー、ずっと続いてるー」
渋滞の先頭は見えなかった。今までお喋(しゃべ)りに夢中だった児童たちが、次々と首を伸ばした。
 「ホントだー」
 「全然、進まないよー」
そんな中、担任の教諭は前方の席で居眠りをしていた。バスガイドは、ここぞとばかり解説を始めた。
 「皆さーん、あともう少しで大手門に着きまーす。この大手門というのは、江戸城、今の皇居の正面玄関だった所です。皇居に入るには、受付で入門許可証を貰(もら)い、百人番所で左側に進むと江戸城の本丸へ行くことができます。そもそも江戸城は…」
春香たちは、そんな解説には興味がなかった。春香は辺りを見回すと、小声で隣の女子に囁(ささや)いた。
 「ねぇ、”大貧民”やらない?」
 「え!? トランプ、持って来たの?」
 「ううん。周くんよ。きょう学校来るとき、周くんがトランプ持って来たの、見せてもらったの」
 「いいね」
 「いいね」
皆の意見が一致した。
さっそく補助椅子を挟んだ5人でトランプが始まった。その間にバスは大手門を過ぎ、皇居外苑(がいえん)を北上して、国立近代美術館、イギリス大使館、国立劇場、最高裁判所など通過した。あとは三宅坂から桜田濠(ぼり)を南に下れば、国会議事堂の正面だ。バスは国会通りに差し掛かった。春香はトランプする手を休めて車窓を見た。そして道路の広さに驚いた。片側だけで4、5車線もあろうかという大きな通りがあり、その真中に国会議事堂が堂々とした姿を見せていた。
 「ほら、すごいよ! 見て見て!」
バスの中は騒然となった。春香たちは国会議事堂の裏へ回ると、参議院の見学受付を済ませた。衆議院の見学には、代議士の紹介が必要だからだ。
春香たちはグループに分かれ、衛視(えいし)の案内の下(もと)、国会議事堂の見学が始まった。中央玄関に立って見上げると、国会議事堂の大きさが実感できた。どんな大地震が来ても揺るぎないような、どっしりとした建物だった。これが第二次世界大戦以前の建築物とは思えなかった。春香のグループは、エンタシスの大きな柱の間を抜けて、緋毛氈(ひもうせん)が敷かれた石段を昇り、二階の中央広間へ通された。そこは、左右に衆議院議場と参議院議場へ向かう通路があり、正面には三階へ続く石段があった。内部は、ベージュ色をした重厚な石造りで、衆議院議場へ向かう通路の入口には、大隈重信と板垣退助の銅像があり、参議院議場に向かう通路の入口には、伊藤博文の銅像が立っていた。春香は、議事堂内の全ての物の大きさに唖然(あぜん)とした。
 「左側の通路は、一般の方は通行禁止ですので、絶対入らないで下さい」
衛視は淡々と春香たちに注意した。
次に春香たちは、三階の御休所に通された。ここは、天皇陛下が国会を叡覧(えいらん)するときに休憩する所だ。螺鈿(らでん)が鏤(ちりば)められた重厚な扉を開けると、周囲には崋山(かざん)織の緋(ひ)色の緞子(どんす)が張られ、柱や天井格縁(ごうぶち)には、金色の飾り金具が打ってあった。
 「わー、きれい…」
春香は、石造りの建物の中に、こんな優雅な部屋があるとは思いもよらなかった。
 「ほら! こっちに大きな鏡があるよー」
 「ホントだー」
 「すげぇ…」
児童は口々に感嘆の声を漏(も)らした。
 「では、次に第一委員会室を案内します」
衛視は、春香たちに構わず、すたすたと先に行ってしまった。春香はもっと見ていたかったが、不審者に思われるのが嫌だったので、衛視の後ろに従(つ)いて行った。
第一委員会室は長い通路の突き当たりにあった。ここは、予算委員会などが開かれる部屋で、TVのニュースでもお馴染(なじ)みの場所だ。春香が見上げると、奥はロフトのようになっており、マイクが数本立ち並んでいた。
 《ここからTVカメラがうつしてるのかな?》
春香は、そんなことを想像しながら見ていた。
ひととおり見ると、衛視が無表情で言った。
 「最後に議場です」
春香たちは、議場の傍聴(ぼうちょう)席へ案内された。ここは、議場を見下ろす位置にあり、正面には議長席と演壇が見え、その一段下には、衝立(ついたて)で囲まれた速記者席があった。参議院議場というのは、元々貴族院の議場だったため、当時の名残で席数が460ある。これは現在の参議院議員数の倍に相当する。そんな話を聞きながら、春香のグループの見学は終了した。
 「あー、終わっちゃったね」
 「いま何時?」
 「もうおひるだよ」
 「え!? じゃぁ、おれたち、小一時間もいたんだ」
 「あっという間だったね」
 「とにかく、すげぇよな」
 「あたしもびっくりしたー」
そんな取り止めもないやりとりをしている間に、春香たちはバスに到着した。
 「お疲れさまでーす」
バスガイドが和やかに迎えてくれた。運転手は、車外で缶コーヒーを飲みながら、一服つけていた。バスのエンジンは止まっており、空調も効いていなかった。春香のグループは早く帰って来たので、バスの中はがらんどうだった。
 「車の中も寒いね」
 「ホント。エンジン入れてくれてもいいのにね」
そうこうしているうちに、他のグループが続々と帰って来た。
昼過ぎ、バスは霞ヶ関の官庁街を一周してから、日比谷公園に到着した。春香たちは、日比谷公園での弁当を楽しんだ。



五 夕餉(ゆうげ)

その日の夜、五代家では家族で鍋を囲んでいた。今日は響子の機嫌がよかったらしく、五代はビールと揚げ銀杏(ぎんなん)で晩酌(ばんしゃく)をしていた。
 「そうかそうか。そりゃ良かったな」
 「それでねそれでね、パパ。おやつにケーキ持って来たの、あたしと七夏(なのか)ちゃんだけだったんだよ」
 「ほぉ…」
響子が菜箸(さいばし)で白菜を鍋に入れながら言った。
 「あぁ、七夏ちゃんって、同じクラスの?」
 「そう☆ 七夏ちゃんのはね、パウンドケーキだったんだけど、春香のケーキもみんなから、いいなぁって言われたんだぁ」
 「そう。それは良かったわね」
 「ママ、ホントにありがとうね☆」
 「どういたしまして」
 グツグツ…。
そろそろ鶏(とり)団子も煮えてきたようだ。響子は、五代の取り皿に団子と野菜を取り分けた。
 「どうぞ」
 「あ、有難う」
五代はあつあつの団子を箸で割り、肉汁の滴る団子を口に運んだ。
 「こりゃ旨い!」
響子はそっと微笑(ほほえ)んだ。
 「なぁ、春香。ママの料理は最高だよな?」
 「本当。あたし、今日すっごく自マンだったよ」
響子は、春香にも微笑んで見せた。
 「ママ、ぼくも!」
冬樹が取り皿を差し出した。響子は、取り分けた団子と野菜をふうふうと吹いてから、冬樹に渡した。
 「冬樹、これ、熱いから気をつけてね」
 「うん!」
 「ふうふうってするのよ」
 「うん!」
冬樹は言われたとおり、ふうふうと冷ましてから満足そうに食べていた。
 「いやぁ、やっぱ寒い日は鍋だな。あははは…」
アルコールが入って、五代も楽しそうだった。
その日は住人による宴会もなく、春香の社会科見学の話で盛り上がった。食事が終わって、五代が腹を擦(さす)った。
 「っふー、食った食った」
五代は横になると、TVのスイッチを入れた。液晶カラーTVのCMが流れていた。
 「あぁ、家もTV、液晶に替えようかな…」
 「もう、あなた。そんなお金もないくせに」
 「そりゃそうだけどさ。でもこのTVが壊れたら、何かしら買わざるを得ないだろ?」
 「まぁ、それはそうですけど…」
するとふたりの話を聞いていた冬樹が言った。
 「パパ、だめだよ。このテレビは、こわれないよ」
 「どうして?」
 「ぼくといっしょに まいにち おどってるんだ」
 「なぁ、響子。こいつ、なに言ってるんだ?」
 「”だんご三兄弟”のことじゃないかしら?」
 「あぁ、最近流行の…」
 「この子ったら、もう毎日大変なんですよ。一日二回、昼と夕方に必ずTV見ながら、一緒に踊ってるんですから」
 「そうかそうか」
五代はさもありなんという風に頷(うなず)いた。
 「そうだな。毎日一緒に踊ってたら、TVは壊れないもんな。な?冬樹」
 「うん♪」
 ジリリリン…。
そこへ黒電話が鳴った。
 「あら、こんな時間に誰かしら?」
響子は電話に対応した。
 「もしもし、五代でございますが…」
 「あぁ、響子さん? わしだよ」
 「あら、お義父(とう)さま」
 「うん。今ごろならいるだろうなと思って」
 「はい。今ちょうどお夕食が済んで、一息入れていたところですわ」
 「そうかそうか。いや、食事中だったら迷惑かなと思ったんだが」
 「そんな飛んでもありませんわ。それで、ご用件は何でしょう?」
 「うん。実はね、ディズニーランドの株主優待券をもらったんだが…」
 「まぁ!」
 「家はこのとおり、年寄りばっかりなんでね。響子さんのところはどうかな、と思ってね」
 「郁子ちゃんに差し上げなくて、宜しいんですか?」
 「うん。あいつは子供がまだ小さいし、子育てでげっそりしてるよ。ちょうど4枚あるんだ。響子さん、どうかね?」
 「喜んで戴(いただ)きますわ」
 「そうか。それは良かった。じゃぁ、いつでも好きなときに取りに来なさい」
 「はい。ありがとうございます」
 「じゃぁ、五代くんにも宜しく言っておいてくれたまえ」
 「はい。本当にありがとうございます」
 「じゃぁ」
 「はい。失礼いたします」
 チン…。
五代が乗り出して尋ねた。
 「音無のじいさん、何だって?」
 「ディズニーランドのチケットがあるから行かないか、ですって」
 「そりゃいいな」
 「え!? ディズニーランド?」
春香が真っ先に反応した。
 「パパ、ディズニーランドへ行けるの?」
 「あぁ、そうだよ」
 「じゃぁ、さっそく明日にでも戴(いただ)きに伺(うかが)おうかしら?」
 「そうだな。俺もできるだけ早く、休める日を探しておくから」
 「やったー♪」
春香は飛び上がって喜んだ。五代家は貧乏ということで、今までどこへも連れて行ってもらえなかったからだ。
 「あなたたち、良かったわね」
響子が微笑(ほほえ)んだ。
 「でも春香は学校があるから、休むっていっても、やっぱ土日かな?」
 「パパ、それは大丈夫よ☆」
 「あぁ、そういえば、今度春香の小学校は、創立記念日でお休みの日があるんだわ」
 「じゃぁ、そいつに合わせるか」
 「それがいいと思います。土日じゃ、あなたも大変でしょうから」
 「じゃぁ、そう立記念日できまりね? ね?」
 「あぁ」
五代一家はディズニーランドへ行くことになった。(続く)