春香のバレンタインデー



作 高良福三


序 ♪〜お買い物

時計坂の街は、どこまでも高い蒼穹(あおぞら)へ真っ直ぐな寒風が吹き抜けていた。その紺碧(こんぺき)色を背景に、紅白の梅や真っ白な雪柳の花が色鮮やかに綻(ほころ)び、我が世の春を謳歌(おうか)していた。先月まで三度も大雪があったなんて思えない程、麗(うら)らかな昼下がりだった。
一刻館の管理人室では、ひとりで積木遊びをする冬樹と、出納(すいとう)帳に算盤(そろばん)を弾く響子の姿があった。
 バタンッ…ドタドタ…。
乱暴に玄関の扉が開く音がする。
 「ママ! チョコの作り方、教えて!」
春香が息急(せき)切って、管理人室に転がり込んできた。赤い少し疲れたランドセルを部屋の隅(すみ)へ抛(ほう)り出し、響子の背中からPIYOPIYOエプロンに縋(すが)り付いて、駄々(だだ)を捏(こ)ねた。時は2月の初め。もうそろそろこんなこともあるのではないかと、響子が思っていた矢先だった。響子は春香に優しく窘(たしな)めた。
 「これ、なんですか。あなたは女の子なのにドタバタと。履物(はきもの)は揃(そろ)えて脱いだの?」
 「あっ、いっけな〜い」
春香は玄関に行って靴を揃えると、管理人室に戻ってきた。
 「ねぇ、ママ。チョコの作り方、教えて」
 「いいわよ。でも誰にあげるの?」
 「…それは内しょ」
春香は嬉し恥ずかしそうに後ろ手を組んで腰を振った。響子は臆測(おくそく)した。
 《まぁ、大体のお目当ては周くんっていうところかしら?》
周くんは、時計坂を下がった辻(つじ)を右に折れた三軒目の家に住んでいる。春香の足でも5分と経(かか)らない距離だ。春香とは幼稚園のときからの大の仲良しで、小学校の登下校も、ふたりはいつも一緒だった。
 「じゃぁ春香、先ず、材料を買いに行きましょうか?」
 「やたっ! ママ、話せるじゃん」
 「これ、春香。”じゃん”っていうのは止めなさい。それは”浜ことば”っていうのよ」
 「え〜!? でも学校じゃみんな言ってるよ」
 「余所(よそ)は余所、家は家です。気を付けてないと、パパに言いつけるわよ」
 「それは言わないで〜。春香、ちゃんと分かったから、もう言わないから…」
春香は慌てて前言を撤回した。それというのも、春香にとって五代は世界一のパパであり、異性としての憧憬(しょうけい)でもあったからだ。
 「それじゃぁ、行きましょう。序(つい)でに惣一郎さんのお散歩もしちゃいましょうか」
 「春香がやる〜」
 「分かったわ。春香、ちょっと待っててね」
 「一の瀬さん…」
 ぱたぱた…。
響子は管理人室を出て1号室に留守を頼みに行った。先程までひとり積木遊びをしていた冬樹が訊(たず)ねた。
 「おねえちゃん、おでかけするの?」
 「そうよ」
 「じゃぁ、ぼくもいく!」
 「だ〜め! これは女の子のひみつなの!」
 「え〜! なんで?」
 「冬樹、あんた男でしょ?」
 「ずるい、ずるい〜!いつもおねえちゃんばっか…」
 「うるさいわね!男の子が買い物のことでピーピー言うんじゃないの!」
 「……」
冬樹は自分が馬鹿にされたのに、思ったように反駁(はんばく)できなくて悶絶(もんぜつ)した。そこへ留守を頼みに行った響子が帰って来た。
 「あら、あなたたち、何?喧嘩(けんか)?」
 『……』
 「姉弟(きょうだい)仲良くして頂戴(ちょうだい)ね。パパもいつも言ってるでしょ?」
 『は〜い』
 「じゃ、冬樹はここでちゃんとお留守番してるんですよ」
 「ぶ〜…」
響子からも諭されて、冬樹は不貞腐(ふてくさ)れた。
 「じゃね、冬樹。行ってきま〜す♪」
冬樹はふたりの後を尾行(つけ)るように、玄関まで見送った。
 「さぁ、ソウ一郎さん♪」
春香が惣一郎の鎖(くさり)を手に取った。
 「ば〜う」
最近惣一郎は、歳の所為(せい)か、散歩に行っても途中でへたり込むことが多くなってきた。昔のように元気に吠(ほ)えることもなくなった。五代と響子は、惣一郎の容態をとても気にしている。いつまでも元気でいて欲しいというのが、五代家の皆の願いだった。冬樹は裸足のまま三和土(たたき)に立つと、恨めしそうに玄関の扉の隙間(すきま)からふたりを見ていた。そんな冬樹に響子が気付き、振り向いた。
 「冬樹、ちゃんとお留守番、お願いね〜」
 「ばいば〜い♪」
 「ばうば〜う!」
ふたりの影はすぐ塀から見えなくなった。冬樹は溜(ため)息を吐(つ)くと、仕方なく管理人室に戻った。



一 チョコボール

その日の夕食は、響子特製の豚汁だった。付け合せには、色鮮やかな刺身蒟蒻(こんにゃく)と納豆(なっとう)が添えられた。帰宅した五代が目を瞠(みは)った。
 「お! これは旨そうだな」
 「あの、あなた?その豚汁、以前新潟で戴(いただ)いた”のっぺ汁”を参考にしてみたんです」
 「ほぉ、そうかそうか」
 「まぁ、味の保証はありませんけど…」
 「いやいや。響子の作るものだったら何でも旨いよ。で、この刺身蒟蒻は?」
 「は〜い! それ、春香が選んだの!」
 「蒟蒻はダブるから止(よ)しなさいって言ったんですけどね…」
 「まぁ、彩(いろどり)も綺麗(きれい)だし、これもいいんじゃないのか?」
 「そうね」
五代と響子は失笑した。春香は、五代のことばを聞いて自慢気に胸を反(そ)らせた。
 「ほ〜らママ、春香が言ったとおりじゃん」
響子の目が鋭く光った。
 「これ、春香!またあなた”じゃん”って…」
 「あっ…」
春香は思わず両手を口に当てて息を呑(の)んだ。大好きなパパの前で失態を晒(さら)してしまったからだ。響子は口煩(うるさ)く説教を始めた。
 「ことばっていうのはね、日常が現れるものなんです。春香ももう4年生なんだから、もっとことば遣いもしっかりしなさい」
 「はーい…」
 「よぉし、春香、良い子だ。それじゃぁ、戴きま〜す」
五代が食事の号令を出した。
 『いただきま〜す』
冬樹は、春香が叱(しか)られて、内心いい気味だと思った。そこへ五代が冬樹の顔を覗(のぞ)き込んだ。
 「冬樹? これはママ特製の豚汁なんだから、よぉく味わって食べるんだぞ」
冬樹は、五代に出し抜けそうに言われて、吃驚(びっくり)してひとり慌ててしまった。
 《あの子、何、オドオドしてるのかしら?》
響子はそう思いながら豚汁を啜(すす)った。
その日の食事も無事終わり、響子と春香が後片付けをしだした。春香は、もう女の子としての教育を響子から受けていた。それに後片付けをしないことには、肝腎のチョコが作れない。今日の春香は、嬉々として後片付けをしていた。
 「お! 春香。今日はやけに張り切ってるな」
 「それがね、あなた。春香がチョコを作りたいって言うんで…」
 「ママ! それは内しょなの!」
春香が遮(さえぎ)るように小声で叫んだ。その目は真剣だった。響子は内心哂(わら)った。
 《うふっ…。どうせここで作るんだから、内緒も何もないのに…》
春香は最後の皿を布巾(ふきん)で拭(ふ)くと、そそくさと先ほど買い求めた物を台所に並べだした。
 「はい、ママ! じゅんびできたわ」
 「じゃぁ先ず、チョコレートを細かく刻みましょう」
響子は庖丁(ほうちょう)でチョコレートの塊を細かくこそいで見せた。
 「さぁ、春香? やってご覧なさい」
春香は脚立(きゃたつ)を持ち出してちょうど好い高さに腰掛けると、もりもりとチョコレートの塊をこそいでいった。響子は春香の庖丁の持ち方が危険ではないことを確認してから、雪平鍋(なべ)に半分ほど水を張って火に掛けた。
 「次にチョコレートを湯煎(ゆせん)して融かしましょう」
 「はーい♪」
春香は小さめのボールの中に、こそいだチョコレートを入れて湯煎を始めた。
 「じゃぁ、生クリームと無塩バターを入れるわよ」
 「はい!」
何時になく真剣な春香の表情を、五代は楽しそうに見ていた。
 《家にも電子レンジでもあれば、もっと楽なんだろうな…》
考えてみれば、五代家は実に「昭和」の家庭だった。黒光りする柱、白い土壁と畳敷きの部屋には、瞬間湯沸かし器もない流し台、ふたつのガスコンロと小型冷蔵庫。風呂も無いし、洗面所や便所は共同だ。ただ最近リフォームした防犯サッシだけが異彩を放ち、「平成」の雰囲気(ふんいき)を醸(かも)し出していた。
 「ほら、しっかり混ぜて」
 「はいっ♪」
響子が春香を的確に指導する。
 「次にナッツを入れるわね」
 「はい♪」
 「じゃぁ、混ぜるのはそのくらいにして、粗熱(あらねつ)を取ってから冷蔵庫に入れます」
春香はチョコレートの入ったボールを大事そうに冷蔵庫に入れた。
 「そしたら、スプーンを2つ持って来て」
 「はーい♪」
 「チョコレートが固まりだしたら、そのスプーンで掬(すく)って、玉を作るのよ。ほら」
響子はスプーンを旨く操ってチョコレートの玉を作って見せた。
 「わー♪ 春香もやる!」
 「手早くね」
春香はチョコレートを不器用にスプーンで掬い、何とか丸い物体を作っていった。
 「春香? とっても上手よ」
 「えへ☆ えへへ…」
春香は少し照れながらチョコレートの丸い物体を作っていった。
 「はい。そうしたら次に、ココアパウダーを振り掛けます」
春香のチョコレートはテンパリングしていないので、そのままだと表面が粗くなって、粉を噴いてしまう。だから表面がやわらかい内に、ココアパウダーでチョコレートの表面を覆うのだ。春香はバットに入れたチョコレートにココアパウダーを振り掛けた。
 「そう。あとはバットごとコロコロと転がすようにね」
 「はい!」
春香はチョコレートをバットの中で転がした。これでチョコレートトリュフの完成だ。
 「ママー! 出来たよ、ほら」
春香は嬉しそうにバットを持って響子に見せた。響子はそのひとつを抓(つま)むと、真剣な表情で吟味しだした。春香が固唾(かたず)を飲んで見守る。響子は暫(しばら)くトリュフを口の中で転がしていたが、にっこり微笑んで言った。
 「春香? 美味しいわよ」
 「やったー☆」
春香のチョコレートが完成した。後はラッピングをすれば完璧だ。
 「ママ! 何かきれいな紙とリボン、ない?」
 「ちょっと待ってなさい。今出すから」
響子は、指に付いたココアパウダーをぺろっと舐(な)めてから、5号室に向かった。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋になっており、その他の細々とした物も5号室に仕舞われていた。春香はドキドキしながら響子の帰りを待った。
 一方、五代と冬樹は、我関せずという風で、ふたりでテレビを観ていた。テレビではパイレーツが「だっちゅーの!」というポーズをやっていた。冬樹はパイレーツの物真似を始めた。
 「だっちゅーの!」
五代が呆(あき)れた。
 「おいおい、冬樹。お前はそんな真似、するんじゃないぞ」
 「だっちゅーの!」
 「こらこら。止めないか」
 「あはは…」
冬樹は悪びれもせず、声高に笑っていた。どうやらこのポーズは、冬樹の笑いの壺(つぼ)に嵌(はま)ったらしい。
 「冬樹! そんなはずかしいことは止めなさいよ」
春香も、冬樹の行動に対して不快感を露(あら)わにした。
 「だっちゅーの!」
 「こら、冬樹!あんた生意気よ!」
春香が冬樹を追いかける。
 「きゃぁ〜♪」
冬樹は奇声を発しながら管理人室を走り回った。それを春香が懸命に追いかけた。五代が仲裁(ちゅうさい)に入った。
 「こらこら、お前たち、もう止めなさい」
 「だってパパ、冬樹が言うこと聞かないんだもん」
 「ほら、冬樹、こっちへ来ておねえちゃんに謝りなさい」
 「きゃはは…」
冬樹は五代の仲裁も無視してまだ走り回っている。終(つい)に五代の雷(かみなり)が落ちた。
 「こらっ! 冬樹っ!」
五代は冬樹を掴(つか)み上げて春香の前に座らせた。冬樹は多少驚いたようだったが、なかなか春香に謝ろうとはしなかった。五代が無理やり冬樹の頭を下げさせた。
 「ほら、おねえちゃん、ごめんなさいって…」
 「だっちゅーの!」
 「……」
五代は冬樹の天真爛漫(らんまん)さに呆れ果てた。



二 スキーとスケート

 「春香、こんなのでどうかしら?」
響子が5号室からラッピング用の紙とリボンを持って現れた。
 「わぁ! きれい!」
春香は機嫌を直して、早速ラッピングに執(と)りかかった。
 「えーっとね…、これも好いけど、あっちの方が好いかな?」
春香が数枚の紙を並べて考え込んでいた。響子が呆れて助け舟を出した。
 「春香? 何人のひとにあげるの?ママが選んであげる」
 「え〜? …ママにも内しょ」
春香の極秘プロジェクトが始まった。響子はやれやれという仕草をして、春香の好きにさせて五代たちの炬燵(こたつ)に入って来た。
 「あれで秘密のつもりかしら?」
 「まぁ、春香もお年頃ってやつじゃないかな」
 「でもあの様子だと、暫くは決まらないわよ」
 「適当な時間を見計らって寝かせなきゃな」
 「そうですよ。バレンタインデーまでまだ十分時間があるんですから、別に今日じゃなくてもいい訳ですし…」
 「そうだな」
春香はまだ一生懸命、紙とリボンと睨(にら)めっこしていた。
 「春香? もうそろそろ寝ないか?」
 「え〜? これからが大切なのに…」
 「駄目だよ。もう10時だぞ。明日またやりなさい」
 「は〜い」
春香は不承不承(ふしょうぶしょう)五代に従った。
 「冬樹も、もうお寝んねの時間だな」
 「まだねむくな〜い」
 「駄目だよ。今日はもう寝なくちゃ。響子、ふたりを…」
五代はそう言うと、響子に寝る前の歯磨きを促した。
 「さぁ、春香、冬樹?歯を磨きましょうね」
 『は〜い』
ふたりはがっかりした様子で響子に導かれ、洗面台に向かった。
 「やれやれ…」
五代は溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「じゃぁ、蒲団(ふとん)でも敷いてやるか」
五代は炬燵を部屋の隅に避(よ)けると、押入れから蒲団を取り出し、敷蒲団と掛け布蒲団とを互い違いに敷き始めた。
 「さぁ、これで綺麗になったわね」
響子がふたりを連れて洗面台から戻って来た。早速敷かれた蒲団を見て五代を労(ねぎら)った。
 「あなた、済みません。蒲団、敷いてもらっちゃって」
 「好いよ好いよ。じゃぁ、お前たち、もう寝なさい」
 『は〜い』
春香と冬樹は素直に蒲団に入った。五代は部屋の電器を暗く落として、またテレビを観だした。そろそろ「ニュース10」が始まる時間だ。五代家では、夕刊を取らない代わりにニュース10を観ていた。
 「今月7日から始まった長野オリンピックで…」
アナウンサーの淡々とした口調に、五代が小さな喜びの声を上げた。
 「おぉ! オリンピックか。今年は日本のスキージャンプが凄いって噂だけど…」
 「何でも司会は欽ちゃんなんですってよ」
嘘のような話だが、確かに閉会式の司会は、あの欽ちゃんこと、萩本欽一氏だった。長野では、オリンピックに合わせ、新幹線や高速道路も整備された。また今世紀最後の冬季オリンピックとして、日本国民は多大な関心を寄せていた。五代は母方の親戚(しんせき)が飯山に住んでいるため、長野方面には自(おの)ずと興味と関心があった。画面に映ったスケートリンクを見て響子が小声で笑った。
 「そういえば、あなた。初めてスケートに行ったとき、滑れなくて困ったわね」
 「あぁ、あれな。まさか三鷹さんも滑れないとは思わなかったよ」
 「学校の体育の授業とかでやらないんですの?スケート」
 「うち等の学校はスキーだったんだよな。ストック1本で滑るのがあって、結構みんな真剣に競い合ったもんだよ」
 「まぁ、ストック1本で滑るんですか?」
 「うん。何でも日本最初のスキーが導入されたのが新潟で、そのときはストックが1本だったんだそうだ」
 「へぇ…」
明治44年、オーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ少佐が、新潟県高田(現在の上越市)で初めて陸軍にスキー技術を伝授した。彼は日本陸軍研究のために来日したスキーの名手だった。これが日本のスキーの事始めであり、これを記念してスキー関連6団体では毎年1月12日を「スキーの日」に制定している。現在でも上越市では、レルヒ少佐を記念した「レルヒ祭」を毎年開催している。
五代は昔を懐かしむように響子に尋ねた。
 「あの日は、何でスケートになったんだっけ?」
 「あのときは、賢太郎くんがスケートしたい、っていうのが始まりだったんじゃなかったかしら。そしたら一の瀬さんも行くことになって、電話で話したら郁子も行くっていうことに…」
 「じゃぁ、なんで三鷹さんも来たの?」
 「それは一の瀬さんが勝手に呼んだんですよ。あたしは初めそんなつもりなかったんですから」
 「あぁ、そうだったんだ。いやいや、別に響子を糾弾(きゅうだん)してる訳じゃないよ」
響子は態(わざ)と横を向いて怒った仕草をして見せた。
 「ごめんよ。だけど、あのときの一の瀬さんには参ったよ」
 「ホントね。でも賢太郎くんも社会人だし、もう随分と昔のことのような気がするわ」
 「そうだな。えーと、俺たちが結婚したのが11年前だから、スケートに行ったのは…」
五代が指を繰り出した。響子はそんな五代の手を両手で包み込んだ。
 「止めましょう。何年前でも好いじゃありませんか」
 「まぁ、それもそうか」
 「うふふ…」
 「あはあは…」
ふたりは笑った。
 「でも可笑(おか)しい。あのときは、あたしたちがこんなことになるなんて、考えもしなかったわ」
 「…俺は…考えていたけどね」
五代は恥ずかしそうに上目遣いに呟(つぶや)いた。
 「……」
ふたりは沈黙し、暫くテレビの音だけが流れた。
 コポコポ…。
響子は俯き加減で無言のまま、五代に茶を淹(い)れた。
 「あ、悪(わり)ぃな」
 すーっ、すーっ…。
春香と冬樹の寝息が聞こえてきた。五代と響子は優しい面持ちで寝入ったふたりを見守った。
 「じゃぁ、もうそろそろ俺たちも寝ようか」
 「えぇ」
響子は湯呑と茶道具一式を洗い出した。五代は戸締りを確認するためカーテンを開けた。夜空には鼓(つづみ)星オリオンが高く昇っていた。五代はカーテンを閉めると、テレビのスイッチを切った。今日も夜半前に管理人室の電器が消えた。



三 謎の包み

今日は13日。愈々(いよいよ)バレンタインデーを明日に控え、春香はラッピングに大忙しだった。春香はまだラッピングの紙を迷っていた。
 「えーっと…これが好いかなぁ」
紙を指で摘み上げて、ひらひらと上下に動かしてみる。
 「あ! こっちが好いかな?」
響子は初め一緒に選んであげようかとも思ったが、諦(あきら)めて表の掃除に向かった。外は快晴で雲ひとつなく、吹く風も2月にしてはどことなくあたたかかった。
 「あぁ、好いお天気!」
響子は思わず蒼穹(あおぞら)を見上げて伸びをした。北側の塀の陰には、融け残った雪が白い氷となって凝固していた。雪は、都会の塵埃(ほこり)を巻き込んで、表面が茶色くなった塊がそこかしこに散見された。春の跫音(あしおと)はまだ聞こえないらしかった。
 サッ…サッ…。
響子は石段を掃き始めた。
 「ママ」
冬樹が自分の足の倍はある五代の突っ掛けをぱたぱたと鳴らせて、響子の許(もと)へやって来た。
 「ママ、おねえちゃんは、なにをやってるの?」
 「春香には訊(き)いたの?」
 「うん。でも、おしえてくれない」
 「”ふゆき、じゃま”っていわれた」
 「それで外に出てきたのね」
 「うん」
冬樹は垂れた洟(はな)を啜(すす)っていた。
 「あら、あなた、寒いんじゃないの?」
 「ちょっと さむい」
 「たーいへん」
 「だっちゅ〜の!」
 「これ、それは止めなさい!」
響子は冬樹の手を牽(ひ)いて管理人室に戻った。
 「あれ、冬樹。もどって来たの?」
春香は部屋中に紙を巻き散らかせた真ん中に座っていた。
 「春香、駄目じゃないの。冬樹をこんな恰好(かっこう)で外に出しちゃ」
 「あたしは外に出してないもん。冬樹をこの部屋から追っぱらっただけ」
 「でも冬樹は結果的に表に出てきたのよ。洟(はな)垂らして」
 「それは冬樹の勝手でしょ。あたしは悪くないわ」
 「そんなこと言って。あなた、おねえちゃんでしょ?」
 「好きでおねえちゃんになったわけでじゃないわ」
 「んまぁ、この子ったら…」
響子は呆れて二の句が継げなかった。春香はラッピング用の紙が決まらなくて、相当カリカリきているようだった。いつもの春香らしくなかった。
 「しょうがないわね。あたしも紙とリボン、選ぶの手伝うから」
 「え!? でも…」
 「はいはい。パパには内緒でしょ?」
 「ホント?」
 「だってこの調子じゃ、明日に間に合いそうにないもの」
 「あなた、今週は土曜日、学校に行く日でしょ? さっさと選んじゃいましょ」
 「いいわね、ママ。約束よ。だれにも言わないって」
 「はいはい。分かりました」
 「じゃぁね…これ、どう?」
春香は2枚の紙を選ぶと、ずらして重ね合わせ、響子に見せた。
 「この組み合わせに似合うリボンが見つからないの」
 「そうねぇ…」
響子はいくつか見繕ってリボンを紙に当て、春香に見せた。
 「こんなもんじゃないかしら?」
 「でも、これだと折角選んだ黄色い紙がぼやけちゃうわ」
 「確かにそうね。意外と難しいもんだわ」
 「おねえちゃん、これ、どう?」
冬樹が三越の包装紙を持って、にこにこと近寄って来た。独特の赤い模様が気に入ったようだ。
 「あんた、分かってないわねぇ。それじゃ手作りの意味がないの!」
春香も自分のプレゼントが三越のラッピングでは堪(たま)ったものではなかった。冬樹はしゅんと俯いて、その場で三越の包装紙をはらはらと落とした。すると、響子が嬉しそうに一本のリボンを春香に見せた。
 「あなた、これなんかどう?好いんじゃないかしら」
 「え? どれどれ…」
春香は、リボンを紙に合わせてみたり、離してみたりじっくり吟味していた。
 「うん…好いみたい。ママ、OKよ」
 「じゃぁ、ちゃんと包みましょう?」
春香は紙にチョコレートトリュフを数個包むと、響子を促した。
 「ママ、しばるから、ここ持ってくれる?」
 「はいはい。こう?」
 「そう、そのままね」
春香は一重の固結びを響子に押さえさせ、その上から蝶(ちょう)結びにした。
 「やったー! これで完成っと」
響子が微笑んだ。
 「良かったわね。あと何個作るの?」
春香は思わせ振りに響子の耳に囁(ささや)いた。
 「え!? そんなに?」
響子があまりの数の多さに驚いた。
 「だって、クラスの女子で男子全員に配る分タンしたから…」
 「あぁ、吃驚した。あなたが浮気症じゃないかと思ったわ」
響子は安堵(あんど)して額の汗を拭(ぬぐ)った。
 「それじゃ、急いで包みましょう?」
 「あ、ママ。あとは好いの。あたし、テキ当にやるから…」
  春香は意外なことを言った。響子が呆れた。
 「ひとつ作るのに、あんなに時間かけてたじゃないの! まだ沢山(たくさん)あるでしょ?」
 「だいじょぶ、だいじょぶ。あとはちゃっちゃと包んじゃうわ」
春香は言う早いか、本当に適当にひとつ包み、またひとつと包んでいた。
 「あなた、さっきとは嘘みたいに適当ね」
響子は狐(きつね)に抓(つま)まれたような顔をした。春香は適当に包んだチョコレートを数えた。
 「1、2、3、…。よし、これでおしまいっと。あ〜、つかれた〜」
 「じゃ、紙とリボンは、もう片付けていいのね?」
 「えぇ。ありがと、ママ」
春香は最初に包んだチョコレート以外を全部ランドセルに仕舞った。響子は最初のチョコレートを手に取り、訝(いぶか)しがって春香に訊ねた。
 「あなた、これはいいの?」
春香は吃驚したように最初の包みを響子から取り上げると、慌ててランドセルの陰に隠して見えないようにした。響子は全く訳が分からなかった。
 「おねえちゃん、なにか かくした」
 「冬樹はうるさいわね! だれにも内しょよ」
 「ないしょってなに?」
 「だれにもしゃべっちゃいけないってこと! いいわね」
 「どうして?」
 「どうしても! とにかく、あんたはだれにもしゃべっちゃだめよ」
冬樹はぽかんと口を開けたままこくんと肯(うなず)いた。外から惣一郎の声がした。
 「ばう〜ばうばう」
 「よしよし、惣一郎。ただいま」
五代だった。五代は玄関の扉を開けると、いつものように声を張り上げた。
 「ただいまー」
 「お帰りなさい、あなた」
 『おかえりなさーい』
一家が挙(こぞ)って五代を出迎えた。響子が五代に訊ねた。
 「あなた、明日は保育園、お休みですか?」
 「うん。そうだけど…、何か?」
そこへ突然1号室のドアが開いた。
 「五代くん、明日休みだって?」
一の瀬が顔を出した。
 「休みだからって、何だって言うんです?」
 「じゃぁ、今夜は久し振りにパーっとやるかねぇ、パーっとさぁ」
 「やや、いいですなぁ。パーっと参りましょう、パーっと…」
気が付くと、五代の背後に四谷がいた。響子が声を上げた。
 「皆さん、明日、春香は学校なんです!今日の我が家での宴会は遠慮していただきます!」
宴会部屋だった5号室が五代一家の箪笥(たんす)部屋になったため、代わりに管理人室が宴会部屋として屡(しばしば)開放されていたのだ。
 「響子…このひとたちに”遠慮”なんて言っても無駄だよ。元々”遠慮”なんて単語は知らないんだから」
 「そうだよ、管理人さん。堅いこと言いっこなし」
 「そうでげす。流石(さすが)五代くんは我々のことをちゃ〜んと斟酌(しんしゃく)していらっしゃる」
 「誰があんたらを斟酌するか!」
 「じゃ、五代くん。あとで酒持って行くからね」
一の瀬と四谷は、潮が引くようにいなくなった。肩を落とす五代の隣から春香の声がした。
 「パパ、エン会でしょ? パーっと行かなきゃ♪」
幸か不幸か、春香は大の宴会好きだった。こうなっては五代夫婦が宴会を止められる筈(はず)もない。五代は額の髪を掻(か)き上げると、溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「何でこんな子に育っちゃったのかな」
響子も最早(もはや)諦(あきら)め顔だった。
 「これで冬樹も宴会好きにならなきゃ良いけど…」
 「響子〜、そんな縁起でもないこと、言わないでくれよ」
 「あ、あら。ごめんなさい。あなた」
冬樹は、肩を落としている五代と、それを慰めている響子のことを理解できていないようだった。
 「ママ、おなかすいた!」
響子は我に返ったように振り向くと、春香と冬樹に言った。
 「はいはい。すぐご飯にしますよ。春香、お手伝いお願いね」
 「いいわよ」
すると、五代が冬樹を試すように言った。
 「冬樹。お部屋までパパと競争だ! 行くぞ!」
 「おー!」
冬樹は声も逞(たくま)しく駆け出した。五代は手加減して冬樹の後を追った。
 「待てー! 冬樹ー」
 「まてないもーん」
結局、勝負は同着で終了した。



四 管理人室の宴会

 「やんや、やんや」
 「あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…」
五代家は、夕食の途中から一の瀬と四谷に闖入(ちんにゅう)され、結局、今日も住人のペースで宴会が始まってしまった。顔を赤らめた四谷が五代に酌(しゃく)をしに来た。
 「ど〜したんです? 五代くん。さっきから全然飲んでないじゃないですか」
 「そりゃそうですよ。一家団欒(だんらん)を邪魔されれば、誰でも不愉快でしょ」
四谷は悪びれもせずに言った。
 「これは異(い)なことを仰(おっしゃ)る。そんな五代くん、済んだことをいつまでもくよくよしても始まりませんぞ」
 「その”済んだこと”をしたのは誰なんですか?」
 「いぇーい! ぜっこーちょー」
一の瀬が扇子を両手に持ってポーズを極めた。
 「きゃー。おばさん、カッコイー☆」
春香も絶好調だった。響子は、春香が酒も飲まずによくここまで明るくなれるものだなと、半(なか)ば呆(あき)れ半ば感心していた。
 「管理人さーん。飲んでるか〜い?」
一の瀬が絡みだした。
 「え? はいはい。飲んでますよ」
響子は力なく愛想(あいそ)笑いをして見せた。
 「そういえば、一の瀬さん知っていますか?」
四谷が一の瀬に問い掛けた。
 「何だい? 四谷さん」
 「明日はバレン・タインデーですぞ」
 「そんなこたぁ知ってるよ」
 「管理人さんは、五代くんにチョコレートを贈るんでしょうか?」
 「さぁね。管理人さんは、そういう世間の風潮には流されない方だからね」
一の瀬は扇子の陰から響子を覗いた。
 「本人の目の前で大声で密談するのは止めて下さい」
響子が凄むように一の瀬に対抗した。一の瀬は残念そうに首を振った。
 「こりゃ、五代くんは貰(もら)えそうにないねぇ」
 「いや、まだ分かりませんぞ。五代くんには、春香ちゃんという可愛い女の子がいるではありませんか」
いきなり自分に話が振られて、春香は驚きを隠せなかった。
 「な、何?」
 「春香ちゅわ〜ん」
ビール缶をマイク代わりに持った四谷は、尺取虫のように春香ににじり寄った。
 「春香ちゃんは誰にあげるんですか?」
 「え…っと、あの、チョコはクラスの女子が男子全員に配ることにしたから…。あの、その…」
 「な〜んだ。詰まらない…」
四谷は低い声でそう呟(つぶや)くと、残念そうに自分の席に戻った。春香は、四谷にこころの中を見透かされたようで、とてつもなくドキドキしていた。
 「じゃぁ、今年も五代くんは空振りかい」
やれやれという素振りで一の瀬が首を振った。
 「そうですかな、一の瀬さん。五代くんは、園児に愛のカセットテープを贈られるくらいですからな」
 「あぁ、管理人さんと間違えたあの子!」
 「そうです。あれからもう随分と経っていますから、彼女も”お・と・し・ご・ろ”なんじゃないかと」
 「異常なこと、言わんで下さい!」
五代が激昂(げきこう)して立ち上がった。
 「ほら、ご覧なさい。剥(む)きになってる。怪しいのっしゃ〜」
 「管理人さん、どうするだい?二児の父親が少女と不倫だよ。全く五代くんと来たら…」
 「そういう冗談は止めてください!」
響子も黙ってはいなかった。
 「まぁまぁ、管理人さんも辛かろう? ほら、お飲みよ」
 「妙な慰め方はせんで下さい!」
 「お! 当事者が何か言ってますぞ」
 「全く不倫しておきながら、よくも言えるもんだねぇ」
 「僕は無実だ!」
五代が大声を張り上げた。四谷は楽しそうに五代に言った。
 「それにしても、どうなんでしょうかね?五代くん。こういう環境で子供が育つっていうのは」
 「それって、どういうことですか?」
 「ほら、五代くん。さっきから我々の話に夢中で、お子さんたちの情操に与える影響というものについて、全然配慮がなされておりませんなぁ」
 「そうそう。良い子に育つよ、きっと」
嘲笑(ちょうしょう)する一の瀬と四谷に、遂に響子が鉄槌(てっつい)を下した。
 「いい加減になさーい!!!」
一同の視線が響子に集中した。一の瀬と四谷はともかく、春香や冬樹、五代まで響子を見詰めていた。響子は言ってしまったものの何となく恥ずかしくなって、一度握った拳(こぶし)を開いて、俯き加減に指を組み始めた。一の瀬は囁(ささや)くように四谷に言った。
 「管理人さんも、一時期に比べたら大人しくなったよねぇ」
 「五代くんと結婚する直前は、もっと凄(すさ)まじかったような気が致しますな」
ふたりが響子をまじまじと見詰める。
 「な、何ですか」
響子はふたりの視線にたじたじと圧倒されていた。
 「昔から母は強しと言いますが…」
 「管理人さんは昔から強かったよ」
 「では”加齢による自然現象”ということで、人間が丸くなったんですかな」
 「誰が加齢ですか! 皆さんだって同じだけ歳を取っているんですよ!」
確かに四谷は最近白髪が目立つようになっていた。一の瀬も以前に比べて酒を飲む量が減ってきている。五代家の成長とは裏腹に、ふたりは少しずつ老いていた。一番老いが目立つのは惣一郎だったが。分が悪いと感じた四谷は態勢を立て直すべく、乾杯の音頭を取った。
 「それでは皆さま、五代くんのロンリー・バレンタインに乾杯!」
 『かんぱーい♪』
春香は楽しそうにジュースを飲んでいる。冬樹は段々と瞼(まぶた)が重たくなってきたようだ。さっきから響子に倚(よ)り掛かって、ときどきすーすーと規則的な呼吸をしていた。
 「なあに? あなた、もう眠いんじゃないの?」
冬樹は響子の問にも反応がない。
 「やれやれ困った子ね」
響子は冬樹を抱き上げると部屋の隅に寝かせ、上からタオルケットを掛けてやった。
 「何だ。冬樹はダウンか?」
五代は冬樹の頬(ほお)をツンツンと突付いてみた。やはり反応はなかった。
 「あなた、止めてくださいな」
 「一体いま何時なんだ?」
五代は食器棚の上の赤いデジタル時計に目を遣った。
 「11時!」
時計は23時をとっくに過ぎていた。もう春香を寝かせなければならない時間だ。一方、一の瀬と四谷はまだまだ元気に騒いでいる。春香も仲間に入り楽しそうにしていた。
 「春香、もう寝なさい」
五代が窘(たしな)めた。
 「え〜?」
春香はもっと遊びたいようだ。
 「お前、明日、学校だろう?パパは明日、お休みだからいいけど、お前は早く起きなきゃなんないんだぞ」
 「だって春香、ねむたくな〜い」
 「我がままも大概(たいがい)にしろよ!」
すると響子がパンパンと手を叩(たた)いた。
 「皆さ〜ん、今日はお開きです、お開き」
 「なんだよぉ、これから盛り上がろうってときにさ…」
 「そうですよ、管理人さん。まだ序の口じゃないですか」
響子はふたりのことばにカチンときた。
 「もう子供たちは寝る時間なんです! 早くこの部屋から退去して下さい!」
 「ママ、もっとさわごうよ」
春香は響子の裾(すそ)を引っ張った。
 「何言ってるんです! こんな不良中年の真似なんかしちゃいけません!」
 「そうだぞ、春香。もうお寝んねしよう」
五代も春香に就寝を促した。
 「も〜」
春香は口を尖(とが)らせた。
 「じゃぁさ、春香ちゃんと冬樹くんを寝かせて、それからフィーバーしようよ」
一の瀬が提案した。
 「この状況で、どうやって子供たちが寝れるんですか!」
響子も今日は負けていない。
 「五代くん、管理人さんにガツーンと言ってやって下さいよ」
 「いいえ。僕も響子に賛成です」
 「そ、そんな五代くん…」
涙を浮かべた四谷が袖(そで)を噛(か)んで嘆息した。
 「泣いたって駄目です。同情の余地はありません」
 「いけず〜!」
 「何とでも言って下さい」
そういうと五代夫婦はふたりを管理人室から追い出した。
 「全く毎度毎度これじゃ、こっちも参るよな」
 「でもそういう環境の中で春香は成長した訳ですし…」
 「これじゃぁ、冬樹の情操教育も心配になってきたなぁ」
 「そしたら春香はどうするんですか?」
 「いや、別にそういう意味じゃないんだけど…」
ふたりは互いの顔を見て溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「パパ、ママ、どうしたの?」
春香は何にも考えていないような顔でふたりに尋ねた。
 「いいから、あなたはもう寝なさい」
 「歯みがきはいいの?」
 「ちゃんと歯磨きはしなさいよ。ママがお蒲団(ふとん)敷いてあげるから」
 「はーい」
春香は歯磨きセットを持って洗面台へ向かった。響子が蒲団を敷き終えると、冬樹を抱いた五代がそーっと蒲団の中央に冬樹を寝かせた。
 「みがいて来たよー☆」
春香が戻ってきた。
 「じゃぁ、あなたはもう寝なさい。明日があるでしょう?」
 「はーい」
春香が蒲団に潜ると、五代は電器を暗く落とした。



五 バレンタインデー

そして14日。春香は布団の中で蹲(うずくま)っていた。
 「春香! もう起きなさい!」
響子は盛んに春香を起こそうとしていた。春香は眠くて寒くて蒲団(ふとん)から出たくなかった。
 「う〜ん。もうちょっと〜」
 「ほら、春香! 早く起きなさい!」
 「寒い〜」
 「いい加減にしないと、ママ、怒るわよ!」
春香は響子に蒲団から引き摺(ず)り出された。
 「んもう。春香、ちゃんと起きるってば」
 「あなたは昨日、夜更かしをしたんですから、放っておいたらいつまでも寝てたでしょ」
 「分かった。分かりました」
春香は服に着替えると、タオルと歯磨きセットを持って洗面台に向かった。土曜日の一刻館は、いつもより静かな気がした。
 《おばさんや四谷さんはねてるのかな?》
歯磨きをしながら、春香はそんなことを考えていた。
 「ママ、歯みがきしたら、おなか空いた☆」
 「はいはい。ご飯はもうできてますよ」
今日の朝食はベーコンエッグに響子特製の納豆だった。葱(ねぎ)と醤油(しょうゆ)の他に少量の砂糖と味噌が入って、味に深みを加えていた。五代も響子の納豆は大好きだった。やわらかい朝日に照らされて、ベーコンエッグは光耀(かが)いていた。
 「わー、美味しそう」
 「ほら、早く食べて学校に行かなくちゃ」
響子が春香を促した。
 「いただきまーす」
もりもりと朝食を食べている春香の姿を、響子は優しく見守っていた。
 「行ってきまーす」
春香はランドセルを背負(しょ)うと、元気に走って学校に向かった。
 「ばう?」
 「おはよう、ソウ一郎さん」
 バタン…。
響子は溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「やれやれ。やっと行ったわ」
響子は春香の食器を片付けていた。五代と冬樹は、まだすやすやと眠っていた。
 《じゃぁ、今のうちに庭のお掃除、しちゃおうかしら》
響子は竹箒(ぼうき)を持って庭を掃きだした。
 「管理人さん」
一の瀬が1号室から出てきた。後ろ頭をぼりぼり掻きながら、気だるい感じだった。
 「あら、おはようございます」
 「あぁ、おはようさん」
 「あんた、いつも元気だねぇ」
 「まぁ、庭掃除(これ)は習慣みたいなものですから」
 「五代くんはまだ寝てんのかい?」
 「えぇ、折角のお休みですもの。ゆっくり寝かせてあげなきゃ」
 「家の亭主、もう出掛けたみたいだね。あんた、見たかい?」
 「えぇ。惣一郎さんを散歩に連れて行くときに」
 「そうかい」
 「ご主人さま、随分お疲れみたいですけど」
 「そりゃそうさ。昨日は晩飯食わせてないもん」
 「ご主人さまを抛(ほっ)ぽらかしにして宴会ですか」
響子は呆(あき)れていた。
 「まぁ、いつものことだよぉ」
一の瀬は事も無げに言ってのけた。
一方、時計坂小学校では、春香が授業の準備をしていた。春香はきょう日直なのだ。始業前、女子は全員集まってチョコレートの分配をしていた。
 「みんな、持って来たチョコをここへ出して」
学級委員の女の子が号令を出した。女子はそれぞれ分担したチョコレートを差し出した。
 「春香ぁ、あんたのチョコ、出しとくわよ」
女子のひとりが黒板を拭(ふ)いている春香に声を掛けた。
 「よろしく〜」
黒板拭きを窓の外で叩きながら春香は答えた。
 「じゃぁ、これを全部交(ま)ぜるわね」
学級委員は全員のチョコレートを手でバラバラと交ぜてから、数個ずつ山を作った。
 「じゃ、これは一の列の分ね。それで、これが二の列…」
学級委員はさっさとチョコレートの山を捌(さば)いていった。分配の終わったチョコレートは、女子の手によって男子全員に配られた。
 「なんだよー。全員かよー」
男子のブーイングが聞こえてきた。学級委員の女の子は大声を上げた。
 「全員もらえるだけありがたいと思いなさい!」
 「ちぇえ」
 「ちぇえ」
あちこちから男子が舌打ちをした。勿論(もちろん)周くんもチョコレートを分配されたが、周くんの表情には余裕があった。
 《きっと春かちゃん、ぼくの分を作ってくれてるよな》
周くんは、自分だけは春香から特別チョコレートを貰えるものだと確信していた。
土曜日の小学校は午前で終わった。春香は日直の日誌を書いていた。
 「はーるかちゃん」
周くんが顔を覗(のぞ)かせた。
 「それ終わったら一ショに帰ろうぜ」
 「うん、いいわよ。ちょっと待っててね」
春香は日誌を書き終えると、職員室に持って行った。
 「失礼します。日ッシを持って来ました」
春香の学校の職員室は、用件を言わないと、中に入れてもらえないシステムになっていた。春香は担任の教諭の席に日誌を届けた。
 「先生、日ッシです」
 「はい。ご苦労さま」
担任の教諭は優しい表情で日誌を受け取った。
 「ところで五代さん?今日、男子にチョコレートを配ってようですけど、ああいうことはあまり派手にやらないで頂戴(ちょうだい)ね。他のクラスにも影響が出ますから」
 「はーい、分かりました。じゃぁ、言い出しっぺの委員長に言っておきます」
 「え!? あれは横山さん(委員長)の発案だったの?まぁ、いいでしょう。横山さんには、私から言っておきますから」
 「はい♪ よろしくおねがいします」
 「じゃぁ、日誌、ご苦労さまでした」
 「はい。失礼します」
職員室を出ると、周くんが春香のランドセルと給食袋を持って、春香を待っていた。
 「春かちゃん、帰ろうぜ」
ふたりはいつもと同じように、一緒に学校を後にした。



六 周くんへのプレゼント

帰り途(みち)、周くんは何故か嬉しそうだった。春香から個人的にチョコレートを貰えると信じていたからだ。それは祈念というより寧(むし)ろ確信に近かった。周くんはそわそわしながら春香に訊ねた。
 「春かちゃん、何か忘れている物はない?」
 「え? 今日はチョコ配ったし、給食ぶくろも持ったし、宿題も覚えているし…」
どうも春香には合点が行かないようだった。周くんは焦(じ)れったかった。
 「そうじゃなくてさ、ぼくにくれる物とかないの?」
 「チョコは全員にあげたでしょ?」
周くんはがっくりと肩を落とした。
 《春かちゃんは、ぼくにチョコをくれないんだ》
急に黙り込む周くんを見て、春香は何か言わなければならないと思った。そして思いついたように言った。
 「周くん、帰りに家に寄らない?」
周くんとしては、思いがけず嬉しいことばだった。
 「うん、行く行く」
ふたりは一刻館の門柱まで来ていた。庭では、響子がいつものように竹箒で掃いていた。
 「ただいまー」
 「おじゃまします」
 「あら、周くん。いらっしゃい」
 「ママ、これからチョコ作ってもいい?」
 「いいわよ。でもくれぐれも怪我(けが)しないようにね」
 「はーい♪」
周くんは内心胸が躍(おど)っていた。
 《春かちゃんがぼくのためにチョコを作ってくれるんだ》
周くんは嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちだった。ふたりは管理人室に上がった。
 「周くん、寒いでしょ?こたつに当たってて」
 「うん」
そう言うと春香は手を洗い、チョコレートと生クリーム、無塩バター、ココアパウダーを台所に並べた。
 「では春香のお料理教室、始まり始まりー」
春香は先ずチョコレートを細かくこそいで湯煎を始めた。チョコレートの香りが辺り一面に広がった。
 「次に生クリームとバターをお好みで入れまーす」
 「あ、周くんはチョコレートが苦い方が好い? それとも甘い方が好い?」
 「う〜んと、あんまり甘くない方が好いな」
 「じゃぁ、生クリームは少な目ね」
春香は生クリームを少なめに入れてバターも少しにした。
 「そしてよく混ぜたら、あら熱をとって冷ゾウ庫に入れまーす」
春香の手際の良さに周くんは感心していた。
 《やっぱり春かちゃんは女の子だな》
冷蔵庫の中を見回した春香が、周くんに尋ねた。
 「周くん、昨日のジュース、少しあまってるんだけど、飲む?」
 「うん、飲む」
 「ちょっと待っててね」
春香は昨日の宴会で飲んだジュースの残りをグラスに注(つ)いだ。
 「はい、どうぞ」
 「ありがとう」
そうこうしているうちに、チョコレートが好い具合に固まってきた。
 「そうしたらチョコをスプーンで丸めまーす」
春香は不器用にチョコレートを丸めだした。やっぱり細かい作業はまだ苦手なようだ。
 「それで最後にココアパウダーをまぶして、バットの中で転がします」
春香は、響子に教えられたとおりにバットを転がした。これでチョコレートトリュフは完成だ。形は多少歪(いびつ)だが、みんなに配った物よりも玉に近く、チョコレートの味も濃厚だった。春香はひとつ摘んで味見をしてみた。
 「うん! まぁまぁね☆」
周くんは少なからず感動していた。
 「わー、すごいんだ。春かちゃんって料理もできるんだね」
 「そんなことないよう」
 「はい。チョコ、どうぞ」
春香はチョコレートトリュフを可愛いお皿に盛り付けて、周くんに渡した。周くんが一口摘んで頬張(ほおば)った。
 「うん、おいしい!おいしいよ、このチョコ」
 「そう? ありがと☆」
春香もチョコレートを作ったのが二度目なので、前回よりはまともな物が出来たような気がした。それに周くんにこんなに喜んでもらえたのが、何よりも嬉しかった。春香は適当な紙に残りのチョコレートを包んで周くんに渡した。周くんはとても喜んだ。
 「家に帰ってから、またゆっくりと味わうことにするよ」
周くんはチョコレートの入った包みを持って、喜び勇んで帰って行った。
 「あら、周くん。もうお帰り?」
響子が玄関先で話しかけた。
 「はい! 春香ちゃんのチョコをもらえたんで」
 「そう、良かったわね。また春香と遊んでやってね」
 「はい、おばさん。じゃぁ、さようなら」
 「はい、さようなら」
響子は周くんの後姿を見ながら考えた。
 《春香、やっぱりあのチョコ、周くんにあげたのね》
気が付けば、陽が大分傾いていた。響子は夕食の買い物に出かけることにした。スーパーマーケットはバレンタインデーの催しで大賑(にぎ)わいしていた。
 《あたしも五代さんにチョコあげるべきかしら? でも今まで全然あげたことないのよね》
響子は五代との交際?していたときも、バレンタインデーとは無縁だったな、などと考えていた。結局響子はバレンタインコーナーを素通りした。
 《まぁ、料理を凝ればそれでいいか》
そう自分に言い訳しながら、響子は得意料理を作ることにした。在りし日の惣一郎が大好きだった料理、そして郁子も五代も旨いと言ってくれたあの料理を作ろうと思っていた。
 「レバーでしょ、大蒜(にんにく)でしょ、あと卵と韮(にら)と…」
響子は楽しそうに買い物をしていた。誰でも、美味しいと言われた料理を作ることは、作る方としても張り合いがあるものだ。
 《帰ったら早速下拵(したごしら)えをしなくちゃ》
響子のこころは、まるでチョコレートを贈る女子高校生のようだった。
 「ばう?」
 「ただいま、惣一郎さん」
すると玄関に冬樹が腰掛けて惣一郎を眺めていた。
 「あら、冬樹。どうしたの?」
 「おなかすいたんだけど、おねえちゃんがチョコしかくれないの」
 「あらあら、大変。すぐお夕食の仕度をしますからね」
響子は急いで管理人室に向かった。管理人室に入った響子は愕然(がくぜん)とした。台所がチョコレート塗(まみ)れになっていたのだ。
 「春香! これはどういうこと?」
 「周くんにチョコ作ってたらこんなになっちゃたの」
 「もう、しょうがないわね」
そう言いながら響子ははっと気が付いた。
 《え? それじゃぁ、あんなに悩んでいた最初の包みは誰のだったの!?》
響子は頤(おとがい)に手を遣って考えていた。
 「ママ? どうしたの?」
春香の声で我に返った響子は、取り敢えず春香と台所を掃除して、夕食の準備に執(と)りかかった。



七 最初で最後の包み

料理もほぼ出来上がり、あとは五代の帰りを待つだけになった。
 「ば〜う?」
惣一郎の声が聞こえた。
 《あ、帰って来たんだわ》
 「ただいまー」
玄関先で五代が言うと、響子がいつものようにいそいそと五代を出迎えた。
 「お帰りなさい。今日は早かったのね」
 「あぁ、土曜日だしな」
 「お! 何か好い匂いが漂(ただよ)ってるな」
 「判ります?」
 「今日はお料理を奮発したんです。あなたの大好きな”あれ”ですよ」
 「あぁ、”あれ”か。そいつは楽しみだ」
五代はコートを脱ぎながら、響子と管理人室へ向かった。
 『パパ、おかえりなさーい』
春香と冬樹が部屋の入口で出迎えた。
 「ふたりとも今日は良い子にしてたかな?」
 「うん」
 「はい」
そこへ響子が割って入った。
 「でも春香はお台所、散々汚してくれたんですよ」
五代は不思議そうに訊ねた。
 「なんで?」
 「ちょっと、あなた、聞いてくださいよ」
 「今日、周くんが来たんですけど、チョコ作るって言って、台所中チョコだらけにしたんですから」
 「ママ、それはごめんなさいってばー」
 「あんまりパパに春香の悪口言わないでよ、もう!」
 「はいはい。分かりました」
 「それで冬樹はチョコレート、貰ったのか?」
 「チョコ、たべた」
冬樹はバレンタインデーの意味すら解っていないので、チョコレートを貰えるかどうかについて、全く興味はない様子だった。そこへ響子が意地悪そうな目をして五代を責めた。
 「あなたこそ、今日はいっぱ〜い貰って来たんじゃないでしょうね?」
五代は突然声を上擦(うわず)らせた。
 「い、いやぁ、その…。貰ったことは貰ったけど、義理だよ、義理…」
響子は腕を組んでツンと澄まし、惚(とぼ)けた振りをした。
 「さぁて、どうだか」
五代は焦った。
 「なぁ、響子。ホントだよ、ホント」
響子は散々不貞腐れた振りをしてから、にっこり微笑(わら)った。
 「大丈夫。信じてますよ」
五代がほっと胸を撫(な)で下ろした。
 「全く…脅かさないでくれよ」
 「ふふ…。でも偶(たま)には緊張感があって好いでしょ?」
 「緊張感ねぇ…」
五代が途方に暮れた顔をしたときだった。春香が徐(おもむ)ろに訊ねた。
 「パパ…だれにもらったの?」
 「え?」
 「だからそのチョコ、だれにもらったのよ!」
突然の問い掛けに五代は怯(ひる)んだ。
 「あ、と…えーと、園児と同僚の保母さんからかな? せいぜい5,6個だよ」
春香は拳を握って、猛獣が餌に飛び掛らんとするように五代に詰め寄った。
 「本当!? パパ、そのひとたちのこと、好きなの?」
春香の追及は、響子のそれに似ていた。五代は息を呑んだ。
 「ホントだよ。いや、貰ったからって別に好きでもないよ」
 「じゃぁ、嫌いなの?」
 「え? い、いや、嫌いって訳じゃないけど…」
五代は返答に困っていた。
 「あぁやっぱり、保母さんが好きなんだ…」
春香は顔をくしゃっと潰(つぶ)すと、脇(わき)目も振らず管理人室から出て行った。
 「パパなんか大嫌い!!!」
咄嗟(とっさ)のことに、五代と響子は為(な)す術(すべ)もなかった。驚きを隠せないまま、五代は響子に訊ねた。
 「どういうことだ?」
 「さぁ、あたしもさっぱり…」
暫く空虚な時間だけが流れていった。
 「ママー、ごはんまだ?」
冬樹のことばに響子は我に返った。
 「はいはい。すぐ用意しますよ」
五代は春香が何処に行ったか心配になった。
 「お、俺、ちょっと春香の様子、見て来る」
五代はジャンパーを羽織ると、管理人室を出て行った。
 《春香…どういうことなんだ?何で泣くんだ?》
五代は玄関の三和土(たたき)に並べられた靴を確認した。
 《春香のズックはある。ということは、春香は外へ出て行った…訳じゃないのか》
五代は取り敢えず1号室のドアをノックした。
 「おばさん、一の瀬のおばさん」
 がちゃ…。
ドアが開いてほろ酔い顔の一の瀬が出て来た。
 「何だい五代くん、そんなに慌てて。どうしたのさ」
 「あの…春香。春香を知りませんか?」
 「春香ちゃん?」
一の瀬は後ろ頭をぼりぼりと掻(か)きながら答えた。
 「さぁね。さっき物凄い跫音(あしおと)が二階に上がっていったけど…」
一の瀬は廊下を見回した。
 「どうしたんだい?」
 「そうですか! ありがとうございます!」
五代は言うが早いか、二階へ昇って行った。二階の廊下には人影はなかった。五代は迷わず5号室に向かった。
 《おばさんのとこじゃないとしたら…》
5号室は幼い頃から春香のお気に入りの場所だった。五代はドアをノックしようと一旦(いったん)手を上げたが、その刹那(せつな)躊躇(ためら)うように間を空(あ)けてから、慎重にドアをノックした。
 トントン…。
 「…はい」
 《春香の声だ》
五代は春香を脅かさないように、そっとドアを開けた。春香は窓際に座り、ひとり窓の外を眺めていた。
 「春香…」
五代はそう言い掛けて黙ってしまった。春香の横顔があまりに哀し気だったからだ。
 「春香…」
五代は優しく春香に語り掛けた。春香がゆっくりと五代の方に向き直った。
 「一体どうしたっていうんだ?」
 「パパは春香のことが好き?」
五代は安堵の溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「あったりまえじゃないか。目に入れても痛くないほど大好きだよ」
 「ホント?」
 「ホントだともさ」
春香は腫(は)らした目を人差し指で拭うと、五代にしっかりと抱き付いた。
 「パパの馬鹿!」
 「こらこら。どうしたんだよ」
春香は蚊の泣くような声で呟(つぶや)いた。
 「春香、パパのこと、大好きなの」
 「ん? 何だ? よく聞こえなかったぞ」
 「ううん、いいの」
春香は改めて五代の懐に顔を埋めた。
 「春香…?」
五代の背後から響子の声がした。
 「お部屋に帰りましょ?」
 「……」
春香は無言のまま、こくりと肯(うなず)いた。
五代と響子は春香の手を牽いて管理人室に戻った。部屋に戻ると、響子は春香に優しく言った。
 「春香? パパに渡す物があるんじゃないの?」
 「え!?」
春香ははっとして響子を見た。響子は慈愛に満ちた顔で春香を促していた。春香は急に明るさを取り戻し、ランドセルの陰に隠しておいた包みを五代に渡した。
 「はい、パパ。これ、チョコレート。春香が一生ケン命作ったの」
春香が最初、あんなに悩んで包んでいたのは、五代にあげるためのチョコレートだったのだ。五代は春香の頭に優しく手を乗せた。
 「春香、ありがとう」
春香は恐る恐る五代の顔を見上げた。五代は満面の笑みを浮かべていた。それを見て、春香は嬉しくなった。
 「パパ! それ、食べてみて」
春香に言われるまま、五代は包みを解き、チョコレートを一口摘んだ。濃厚なミルクチョコレートの味がした。
 「春香、美味しいよ」
そう言われて、春香は幸せを噛み締めていた。
 「あなた、お茶が入りましたよ」
響子が紅茶を五代に渡した。
 「ありがとう」
暗くなった南の空では、青星シリウスが輝いていた。春はもうすぐやって来る。北風の吹く中、五代家は今日もあたたかかった。(完)