春香の受験



作 高良福三


序 夏の午下り

多摩の山々は、遠く蒼(あお)く西の空に臥(が)し、黒目川の鈍(にび)色にたゆたう水は、いつもと変わらず街中を密(ひそ)やかに這(は)っている。川原には、真っ白な綿毛を帯びた薄(すすき)の間に、黄色い粟(あわ)を吹いたような女郎花(おみなえし)の花がそこかしこに群れ、おりおり川面(かわも)を渡る風に楽しそうに囁(ささや)いている。
 カナカナカナ…。
山端(やまは)に佇(たたず)む鎮守の杜(もり)からは、行く夏を惜しむかのような蜩(ひぐらし)の声が寂しく響く。公園には子供たちの姿も見えず、きらきら輝く欅(けやき)の影には、一匹の蜥蜴(とかげ)が時おり思い出したようにちょろちょろと動く。
 ゴーッ…。
とつぜん鉄橋を引きずるような西武線の音がや謐(しじま)を破る。昼間は閑散としていた時計坂商店街は、夕食の食材を買い求める客で賑(にぎ)わいはじめてきた。豆腐を鬻(ひさ)ぐラッパの音が街のあちこちに見え隠れする。
 トントントン…。
 一刻館の管理人室では、響子が夕食の準備に忙しかった。その後ろで、冬樹は胡坐(あぐら)をかいてTVを眺めていた。響子は振り返らず冬樹に注意した。
 「冬樹ぃ。あなた、もうちょっとTVから離れなさい。目、悪くするわよ」
 「ん〜?」
冬樹は、諾否(だくひ)なく、どちらともつかない返事をして、動こうとしなかった。響子はそのまま料理を続けながら口煩(うるさ)く言った。
 「ちょっと。あなた、聞いてるの?」
冬樹は面倒くさそうに頬(ほお)を掻いた。
 「うるさいな〜。目はもうワルイって。こないだのケンサで、右目が0.7だって言ってたよ」
 「え? 何よ、あなた。そんなことひとことも言ってくれなかったじゃないの!」
響子は驚いて振り返った。冬樹はTVを観たままごろんと寝転がった。
 「だって、言うのがメンドクサかったから」
 「面倒くさいじゃ済まされないでしょ?眼鏡かけることになったら、大変なのはあなたなのよ」
響子は、エプロンで手を拭(ふ)きながら、ちゃぶ台の横に座った。冬樹は、説教が始まると思ったのか、渋い顔で響子を見上げた。
 「そんな顔したって駄目(だめ)です。あなた寝っころがってないで、ちゃんとそこに座りなさい」
 「はいはい」
冬樹は響子の正面に胡坐(あぐら)をかいた。
 「まったく。”はい”は一回でいいんです」
 「はい」
 「それに胡坐(あぐら)じゃなくて、正座しなさい」
冬樹は気が重かった。
 《一ノセのおばさんでもセケン話に来ないかな》
 バタン…。
 「ただいま!」
春香の声だ。
 「あ! お姉ちゃんだ!」
冬樹はそう言うと、春香を出迎えに玄関に走った。
 「あ、ちょっと。待ちなさい! 冬樹!」
冬樹は、響子の声から逃れるように、後ろ手にドアを閉めて行ってしまった。
 「ったく。しょうがないんだから」
響子はぶつぶつ言いながら、再び夕食の仕度に執りかかった。
 「ママ、ただいま」
暫(しばら)くすると、春香がひとりで管理人室に入ってきた。
 「お帰りなさい。あら、冬樹は?」
 「冬樹なら二階へ上がって行ったわよ」
 「ま! あの子、逃げたのね」
 「どうしたの?」
 「ううん、いいのよ。それよりどうだった? テスト」
 「うん…あのね…」
春香は、浮かない顔で何か言いかけたが、ことばを飲み込むように思い留まった。中学3年生になった春香は、業者が行う学力テストを受けに、近くの久留米高校まで行ってきたのだ。
 「難しかった?」
 「そうでもないけど…」
春香は鞄(かばん)を定位置に置き、ちゃぶ台の横にぺたっと座り込んだ。響子は優しく春香の労をねぎらった。
 「外、暑かったでしょ?麦茶でも飲む?」
 「うん。ちょうだい」
麦茶を待っている間、春香はちらっと響子の後ろ姿を盗み見た。響子が氷を取りに横を向くと、春香は、慌てて身を乗り出してちゃぶ台の向こうにある扇風機のスイッチを入れた。
 カランカラン…。
氷がコップに弾ける音がした。響子は麦茶の入ったコップを盆に載せて持ってきた。
 「はい、どうぞ」
麦茶の入ったコップは、みるみる汗をかいた。
 「ありがとう」
春香は麦茶を一気に飲み干した。
 「っふ〜」
 ちりん…。
軒先に吊(つる)した南部風鈴が鳴った。春香は、セーラー服の胸当てを外してぱたぱたと扇ぎ、目を細めた。
 「あ〜好い風」
響子は麦茶のお代わりを注(つ)いでから夕食の仕度に戻った。
 「あなた、早く着替えてらっしゃいよ。もうすぐご飯だから」
 「は〜い」
 「それから冬樹を連れてきてちょうだい。もう怒らないからって」
 「え? …はい、分かったわ」
春香は管理人室を出て5号室へ向かった。



一 学力テスト

二学期が始まった。業間休み、女の子たちがお喋(しゃべ)りに花を咲かせている中、春香は、鉛筆を鼻の下に挟んだまま、ひとり物思いに耽(ふけ)っていた。そこへ七夏(なのか)が春香の顔を覗き込んだ。
 「はーるか♪」
 「え?」
春香は驚いて七夏の方を向いた。挟んでいた鉛筆が転がって落ちた。
 「どうしたのよ?春香。なんか元気ないじゃん」
 「そうかなぁ」
春香は、のそのそと落ちた鉛筆を拾いながら答えた。
 「あ、分かっちゃった♪」
とつぜん七夏は手を叩(たた)いた。
 「え? 何が」
今ひとつ合点がいかない春香を、七夏は得意そうに見回した。
 「うふふ〜ん。この間のテスト結果が返ってくるから、春香、不安なんだ?」
七夏の言うとおり、今日は、夏休みに行われた業者の学力テストの結果が返ってくる。周りの女の子たちの話題も、学力テストのことで持ちきりだった。
 「う〜ん。そういう訳じゃないんだけどさ…」
春香は、歯切れの悪い返事をして溜(ため)息を吐(つ)いた。七夏は、春香の気持ちを見透かしたように揶揄(からか)った。
 「ほ〜ら、気にしてる」
 「違うよ〜」
 「だって今日の春香、何か元気ないじゃん。それってやっぱりテストのせいでしょ?」
 「まぁ、テストのせいといえばテストのせいなんだけどね…」
 「やっぱり」
七夏はにっこり微笑(わら)うと、春香を励ました。
 「大丈夫よ、春香。あんた頭悪くないんだから、学力テストだって成績いいわよ」
 「そういうことじゃなくてさぁ、その…」
春香が訥々(とつとつ)と話しだそうとしたときだった。
 キーンコーンカーンコーン…。
 「ヤバイ! 担任(ヤマちゃん)来ちゃう。春香、また後でね」
七夏は慌てて自分の席に戻って行った。チャイムが鳴り終わると、担任の教諭が入ってきた。
 「ほらー。みんな席に着けー」
生徒たちはガタガタと自分の席に着いた。
 「これから夏休みに行われた学力テストの結果を返すぞ」
 「え〜」
 「ほら、静かにする。じゃ、名前を読み上げるから、前に取りに来るように」
 「相沢」
 「はい」
生徒はひとりひとり順に成績表を取りに前に出た。教室に緊張と期待が渦(うず)巻く中、春香は漫然と担任の声を聞き流していた。
 「小堺」
 「はい」
 「五代」
 「……」
 「五代。いないのか?」
 「……」
 「おい、五代春香!」
 「あ、はいっ!」
春香が慌てて立ち上がると、教室がどっと沸いた。
 「こら、五代。ぼーっとしている奴があるか!」
春香は成績表で軽く頭を叩(たた)かれた。暫(しばら)くして、生徒全員に成績表が行き渡った。生徒たちは、自分の成績表とにらめっこしながら、頻(しき)りと他人を突(つつ)き合っていた。春香は物憂げに成績表を開いた。成績は153人中56位。とくだん良くも悪くもなかった。教室は次第に騒然となっていった。担任は出席簿で教卓をバンバンと敲(たた)いた。
 「ほら、お前ら静かにしろー。このテストの結果は、今度の三者面談のときの資料になるから、各自大切に保管しておくこと。いいな?」
 「はーい」
 「よし。それじゃぁ、教科書を開け! さぁ、p73ページ」
授業が始まった。生徒たちは、見た目は真面目に授業を受けているようだったが、教科書の陰で成績表を見ている者が多かった。春香は、成績表には目もくれず、授業を受けていた。
 コン…。
春香の頭に紙の飛礫(つぶて)がぶつかって落ちた。飛んで来た方向にそっと振り返ると、七夏が飛礫(つぶて)を指して、盛んに見ろ見ろとジェスチャーしていた。春香は、教諭の目を盗んで飛礫(つぶて)を拾い、注意深く広げてみた。
 ― 成績どうだった? ―
春香は再び七夏の方を見た。七夏は、何が楽しいのか、声を殺して笑っていた。春香はその下に「中の上くらい」と書いてくしゃっと丸めたが、七夏の方には投げ返さず、机の中にしまいこんだ。
 「で、あるからしてー、χの範囲をー、あー、このようにー、条件別に考えることとする」
授業は粛々(しゅくしゅく)と続いた。教諭が板書している間、春香はちらっと周くんの方を見た。周くんは涼しい顔でノートを取っていた。春香も思い直して黒板に目を遣った。すると隣の男子が春香の腕を肘(ひじ)で突いた。何事かと春香が振り向くと、男子は紙切れをよこした。
 ― 成績よくなかったの? ―
七夏の字だった。春香が七夏の方に振り返ると、七夏は、盛んに紙に何かを書くジェスチャーをしていた。春香は観念して、七夏の字の下に自分の順位を書き、くしゃっと丸めて後ろに投げようと振り返った。
 「こら! 五代。何やってる!」
春香の後ろ頭にチョークが飛んで来た。
 「あ、はい! いえ、その…何でもありません」
 「お前までそんな浮っついてるようじゃ、志望校には受からないぞ」
 「す、済みません」
周囲からはくすくすと嘲(わら)い声が聞こえた。春香は反射的に周くんを見た。周くんは黙って見ているだけだった。
 授業が終わった。教諭が教室を出ると、七夏が一目散に春香の席にやって来た。
 「ゴメーン!」
七夏は手を合わせて謝った。
 「んもう! 七夏のお蔭で、いい恥かいちゃったじゃない」
 「ホント、ゴメンね〜。で、どうだったの?成績」
 「成績? うん、まぁ…中の上くらいかな?」
 「やったじゃん。春香すごいねー。あたしなんか超ヤバだよ」
 「そんなことないよ」
 「だったらさ春香、志望校バッチリなんじゃないの?」
 「ん…そうかな?」
 「判定は? A? それともB?」
春香は、七夏のことばを聞きながら、夏休みのことを思い出していた。



二 久留米高校

春香が東久留米高校に行った日は、非常に暑かった。朝から油蝉(ぜみ)がじわじわと熱気を震わし、照りつける陽射しは、セーラー服の上からも肌を刺すようだった。春香は、坂を少し下りた辻(つじ)で周くんと合流した。
 「春香ちゃん、おはよう」
 「おはよう。今日も暑いね」
ふたりは黒目川の手前まで坂を下りた。黒目川の水は、とても清冽(きれい)とはいえなかったが、川面は朝日に煌(きら)めき、川原の緑もいつもより瑞々(みずみず)しく感じられた。ふたりは、いつも通っている通学路から西に外れ、川沿いの道を並んで歩いた。道すがら、春香は楽しそうに周くんに話しかけた。
 「学力テストってさ、他の学校の人も受けるんだよね?」
 「そうだよ」
 「周くん頭いいからさ、きっと一番なんじゃないかな。そしたら周くんは、東久留米市で一番頭がいいってことだよね?」
 「そんなこと、テスト受けてみなくちゃ分からないよ」
 「謙遜(けんそん)謙遜♪周くんなら大丈夫よ」
 「…そうかなぁ」
周くんは、照れ隠しに鞄(かばん)を後ろ手に持ち、肩に懸けた。春香はそう言ってから、急に黙って周くんの横に並び、俯(うつむ)き加減で歩き出した。強烈に照り返す道には、囁(ささや)くような木々の影が時おり寄せては引いた。
 「わっ!」
誰かがふたりを背後から襲った。七夏(なのか)だ。
 「おっはよー♪」
 「なんだ、七夏かぁ。ビックリさせないでよ」
 「ん? ビックリした?」
七夏は、したり顔でふたりの前に回り込み、春香を見てにやにやと哂(わら)った。
 「なぁに? 七夏」
 「別にぃ。こんな暑い日に、ふたりともと〜ってもお熱いから、ちょっとビックリさせちゃおうかなぁんて思ったりして♪」
それを聞いた春香が頬(ほお)を赧(あか)らめた。
 「な! ちょっ! 七夏、あたし別にそんなんじゃないよぉ」
七夏は、春香の反応を面白がるように笑った。
 「はいはい、怒らない怒らない。それより早く行こうよ。先生が早めに行くようにって言ってたでしょ?」
七夏は、有無を言わさず、ひとり先に走り出した。
 「あ、ちょっと待ってよ。七夏ぁ」
春香と周くんは、七夏の後を追った。三人は予定より早く東久留米高校に到着した。東久留米高校の校庭は、時計坂第二中学校よりずっと広かった。三人は、案内板に書かれてあるとおりに進み、試験会場の教室に誘導された。会場は、受験番号順に教室が振り分けられていた。春香は、自分の受験票を確かめながら、周くんに尋ねた。
 「周くんの受験番号は何番?」
 「僕は山本だから後ろの方だよ」
 「あ、そっか。別に学校毎(ごと)に割り振られてるんじゃないんだね」
七夏は、春香の腕をぐっと掴(つか)んで抱きついてきた。
 「そういうこと。春香は五代だから、小日向(あたし)と一緒の教室よ」
 「はいはい。七夏ったら」
 「じゃ、僕は行くから」
 「うん。周くん、頑張っていい点取ってね」
 「あぁ。春香ちゃんも頑張って」
周くんはそう言うと、人込みに紛れて廊下の奥に姿を消した。
 「さ、春香。行こ行こ♪」
 「あ、うん」
春香と七夏は教室に入っていった。教室は中学校よりも大分広かった。しかし何よりふたりが驚いたのは、教壇の広さだった。優に中学校の1.5倍はあるだろうか。従って黒板も、幅、高さともに大きかった。
 「凄(すご)いね。やっぱ高校って感じだよねぇ」
ふたりがはしゃいでいると、試験官と思(おぼ)しき教官がやって来て、教卓の上に試験問題を堆(うずたか)く積上げた。教室のあちこちで雑談をしていた生徒は、言われるともなしにみんな席に着いた。今までの喧騒(けんそう)が嘘のように静まりかえった。予想外の反応に、試験官が恐縮した。
 「あの…、試験までまだ時間がありますので、皆さん、そう緊張しないでいいですよ」
そう言われても、あのように試験問題を目の前に積まれては、最早ふざけられる雰囲気ではなかった。春香は、机の上に筆記用具を並べて、姿勢を正して待った。試験官は、教卓の椅子(いす)を教壇の横に置き直し、脚を組んで座った。時計は8時40分を指していた。試験開始は9時ちょうどからだ。試験官は、暫(しばら)く生徒とにらめっこしていたが、やおら立ち上がると、黒板に試験の時間割りを板書しはじめた。そんな何気ない光景を、生徒たちは固唾(かたず)を飲んで見守っていた。その間、春香は堆(うずたか)く積上げられた試験問題の山を見ていた。高々20分くらいの時間が、春香にとっては非常に長く感じられた。板書を終えた試験官は、自分の時計を確認すると、試験問題を配りはじめた。
 《いよいよだわ》
春香は緊張した。しかし配られたのは試験問題ではなく、マークシート用紙と高校名のコードが書かれた冊子だった。
 「えーっと…では、試験の前に、皆さんの志望高校を第三志望までマークシートに記入してください。記入の方法は、冊子に書いてある記入例をよく見て書いてください。時間はたっぷりあるので、心配しなくていいですよ。それから分からないことがあったら、いつでも手を挙げて質問してください」
生徒たちは、言われるが早いか、一斉にマークシートにかぶりついた。春香は当惑した。
 《どうしよう。そんないきなり志望校を書けだなんて…》
春香は七夏の方を一瞥(いちべつ)した。七夏は、冊子をぱらぱらと捲(めく)りながら、マークシートに次々と記入しているようだった。春香は諦(あきら)めて冊子を眺めた。冊子には、高校の名前がずらっと羅列されており、その横にはコード番号が書かれていた。春香は適当に冊子を捲(めく)っていった。その殆(ほとん)どが聞いたこともない名前の高校ばかりだった。
 《困ったな。えーっと…知ってる高校、知ってる高校…と。そうだ! ここは、家から一番近いんだから、第一志望にしようっと》
春香は、戸惑いながらも、志望高校をひとつずつ決めていった。



三 黒目川のほとり

学力テストはあっけなく終わった。春香と七夏(なのか)は、周くんと待ち合わせて三人で帰途についた。夕刻といっても空は明るく、空気はまだ茹(う)だるように暑かった。あまりの暑さに我慢できなくなった七夏は、春香に提案した。
 「春香、ジュースでも買わない?」
 「え…」
春香は七夏の突然の提案に驚き、訴えるように周くんを見た。登下校の買い食いは、校則で禁止されているからだ。周くんは春香の方を一瞥(いちべつ)してから、大袈裟(おおげさ)に七夏を揶揄(からか)った。
 「小日向(こひなた)さん、そんなこと言っていいのかな? ジュース飲んでるとこ携帯で撮って、山ちゃんに見せちゃおっか。そしたら来週の掃除当番、小日向さんに決まりだな」
 「え〜! いいじゃんいいじゃん。あたしたち、別に学校の帰りじゃないんだしさ。ほら、ただ三人で東久留米高校に出掛けただけなんだから。ね? 春香」
 「でも…」
春香は再び周くんを見た。周くんは額に玉のような汗が浮かんでいたが、七夏のことばに惑わされなかった。
 「そんなに喉(のど)渇いてるならさ、ほら、あそこに公園があるから、そこで水でも飲もうよ」
三人は、黒目川を臨む公園で休憩することになった。春香と七夏はベンチに腰掛け、周くんは浴びるほど水を飲んだ後、ブランコを立ち漕(こ)ぎしていた。七夏は身を投げ出すように仰向いて空を見上げた。
 「あー! 試験ぜんぜん駄目(だめ)。これじゃ、偏差値足んないだろうなぁ」
 ギーッ、ギーッ…。
春香と周くんは黙っていた。辺りには、周くんの漕(こ)ぐブランコの音だけが響いていた。
 「ねぇねぇ。ところでさ、春香。志望校どこにしたの?」
 「志望校?」
 「ほら。第一志望から第三志望までマークシートに書いたじゃん」
 「あぁ、それ? あたし分からなかったから、適当に書いちゃった」
 『え?』
七夏だけではなく、ブランコを漕(こ)いでいた周くんも驚きの声を上げた。七夏は戸惑いながら春香に尋ねた。
 「適当に…って、あんた志望校とか考えてなかったの?」
 「う…ん」
春香は、何か言ってはいけないことを言ってしまったかのように、困惑しながら答えた。七夏は強い口調で春香をどやした。
 「うんって、あんた。あたしたち受験生なんだよ? 志望校考えてないなんて、ちょっとおかしいんじゃない?」
周くんはブランコを漕(こ)ぐのを止めて、春香の傍らに佇(たたず)んだ。
 「まぁ、おかしいっていえば、おかしいんだけどさ…」
春香は足元の土を靴で何度も擦(こす)っていた。
 「あたし、高校ってよく分からないんだよね」
 「は? 高校が分からなくて、どこ行こうっての?あんた」
 「ううん。そういう意味じゃなくて、あたしが言いたいのは、高校って、なんでみんな行くのかなって」
 「そりゃぁ…」
そこまで言って、七夏はことばに詰まった。春香は、機を見て敏に七夏にたたみかけた。
 「そりゃぁ…なに?」
七夏は、目を游(およ)がせながら、ことばを選んだ。
 「そりゃぁ…高校に行かないと、就職とか大変そうだし…、それにまだいっぱい遊びたいし…」
 「七夏は、遊ぶために高校に行くの?」
 「別に、そういうわけじゃないんだけど…」
窮地(きゅうち)に立たされた七夏を見て、それまで黙って耳を傾けていた周くんが、徐(おもむ)ろに春香に尋ねた。
 「じゃぁ、春香ちゃんは、どうしてみんなが高校に行くんだと思うの?」
 「よく分かんない」
春香は立ち上がって、スカートについた塵埃(ほこり)を叩(はた)いた。
 「あたし、分かんないの。みんながどうのとかじゃなくて、ホントのこというと、あたしって高校に行っていいのかなって。それに、もし行くんだとしても、高校で何をすべきなのかなって」
 カァーカァー…。
数羽の烏がねぐらに帰る声が、風に乗って聞こえてきた。公園の木々は、さざめくように枝を鳴らした。
 「でもさぁ、春香。みんな高校行くんだし、それって当たり前のことなんじゃないの?」
ベンチに座ったままの七夏が春香を見上げた。
 「それよ!」
春香は興奮気味に続けた。
 「みんなが高校行くからって、どうしてそれが高校に行く理由になるの?それって、あたしには全然分からない」
 「それはそうだけど…」
 「それより春香ちゃん。なんで春香ちゃんは、高校に行くべきかなんてことに、そんなに拘(こだわ)るのかな?」
 「それは…」
 「そうよ。どうせみんな深く考えちゃいないんだし、春香だって何もそんな悩んでないで、普通に高校行けばいいじゃん」
 「それは…」
春香は、急に消沈したように俯(うつむ)いて、またベンチに腰を下ろした。
 「おかあさん。ぼく アイスほしい!」
 「はいはい。あなたがいい子にしてたらね」
公園の前を夕食の買い物に行く親子連れが通った。春香は足元の小石を蹴った。
 「だって…あたし、聞いちゃったんだ」
七夏と周くんは、春香のことばに身を乗り出した。
 「聞いちゃったって、何を?」
 「うん。パパとママの会話…」
春香は、暫(しばら)くツインテールを指でくるくると巻いていたが、訥々(とつとつ)と語り始めた。



四 一の瀬氏の謎

梅雨の最中、その日は狭霧(さぎり)のような雨が垂れ込めていた。春香は、いつものように学校から帰ると、玄関で大声を張り上げた。
 「ただいまー♪」
普段なら、響子がすぐ出迎えに来るのだが、その日に限って何の音沙汰(さた)もなかった。
 《あれ? ママいないのかな》
玄関の三和土(たたき)には、響子の突っかけがきちんと揃(そろ)えて置いてあった。春香は、念のため下駄箱を覗(のぞ)いて靴を確認したが、響子の靴は全部あった。春香は、怪訝(けげん)に思いながらも、ちょうどピンク電話の角を曲がろうとしたとき、管理人室のドアが開いた。春香は笑顔で言った。
 「あ、ママ♪」
しかし出てきたのは一の瀬だった。
 「あ、おばさん。ただいま♪」
 「あ、あぁ…。春香ちゃん、お帰り。それじゃ管理人さん、ホント恩に着るよ」
一の瀬は、響子との挨拶(あいさつ)もそこそこに、足早に部屋を後にした。
 「あの…」
春香は、一の瀬の様子がおかしいので声をかけてみたが、一の瀬は春香の目を避けるように1号室へ消えていった。
 《おばさん、どうしたのかな?》
春香は気を取り直して管理人室に入った。部屋では、響子が電卓を前に頬杖(ほおづえ)を突いていた。
 「あ、お帰りなさい。春香」
響子は春香の姿を見ると、慌ててテーブルの上に広げられたものを片付けだした。
 「ママ、何かあったの?」
 「いいえ、何でもないのよ。それより春香、あなたこれからお部屋で着替えるんでしょ? 二階に冬樹がいるから、もう戻ってきてもいいわよって伝えてくれる?」
 「え? 二階に冬樹が? 別にいいけど…」
響子は、片付けたものを押入れにしまうのに一生懸命で、春香の方を見向きもしなかった。春香は、後ろ髪を引かれるような気持ちで管理人室を出て、5号室に向かった。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋だったが、春香の受験勉強用に荷物が整理され、現在は事実上、春香の部屋になっていた。
 ズキューン、ダダダダ…。
二階に上がると、5号室のドア越しに冬樹の声が聞こえてきた。春香が用心してそっとドアを開けると、案の定、冬樹が箒(ほうき)を小脇(こわき)に抱えて、部屋中を転げ回っていた。春香は呆(あき)れて冬樹を窘(たしな)めた。
 「冬樹。あんた、何やってるのよ」
「あ おねえちゃん。ぼく キラだよ」
 ピシューピシュー…。
冬樹は、言うが早いか、再び戦闘を開始した。箒(ほうき)を銃に見立ててガンダムごっこをしているようだ。
 「ちょっと! あたしの部屋なんだから、乱暴なことはしないでよ! ほら」
春香は、冬樹の箒(ほうき)を奪って頭を押さえつけた。冬樹が抵抗した。
 「やめろよー。それ 大ジなライフルなんだからぁ」
 「これのどこがライフルよ。ほら、あんたもう階下(した)に行きなさい。ママが戻ってきてもいいわよだって」
 「え? ホント」
 「そうよ。早く出て行きなさい」
 「は〜い」
冬樹が部屋を出ようとしたとき、春香は思い直して冬樹を呼び止めた。
 「ねぇ、ちょっと冬樹。一の瀬のおばさん、様子がおかしかったけど、どうかしたの?」
冬樹は、春香の質問に要領を得ないようだった。
 「う〜ん…わかんない。おばさん なんだかすっごいクライかんじでさ。そしたらママが2カイであそんでなさいって」
 「ふーん」
春香は、一の瀬の身の上に何かが起きたことを直感したが、冬樹の言うことだけでは、何が起こったか見当もつかなかった。
 「分かったわ。ゴメンね。あたしこれから着替えるから、冬樹は階下(した)行ってなさい」
 「うん わかった」
冬樹は箒(ほうき)を持って、元気に階段を降りて行った。
 その日、春香は、一の瀬のことを響子から聞き出せないまま、夜になった。冬樹はそろそろ床に着くため、5号室に行くことにした。
 「パパ ママ おやすみなさい」
 「あぁ、おやすみ」
五代たちに見送られ、冬樹が管理人室を出ようとしたとき、TVを観ていた春香が急に立ち上がった。
 「あ、あたしも行く」
響子が驚いた。
 「あら、もう寝るの?」
 「ううん。ちょっとパジャマに着替えるだけだけど」
 「じゃぁ、冬樹のこと頼んだぞ」
 「は〜い」
春香と冬樹は、連れ立って5号室に向かった。
 「おねえちゃん あしたはれるかなぁ?」
冬樹は、甘えるように春香に纏(まと)わりついた。
 「そうねぇ…」
春香が5号室のドアを開けて外を見ると、雨はもう霽(や)んでいるようだった。暗い室内からは、時計坂の街の灯りが鮮やかな紅(くれない)の塵(ちり)のように見えた。春香は窓を開けて身を乗り出した。外気は生あたたかく湿っていて、春香のツインテールが頬(ほお)にぺったりとついた。遠く東の空を望めば、新宿の眩(まばゆ)い光の塊が、暗い雲の姿を不気味に浮かび上がらせていた。
 「ふーっ」
春香は溜(ため)息を吐(つ)いて管理人室に目を落とした。カーテン越しのやわらかいピンクの影は、TVの映像にちらちらと揺れていた。
 「おねえちゃん どうしたの?」
 「え?」
冬樹が春香の背後から声をかけた。
 「何でもないわ。さぁ、お蒲団(ふとん)敷きましょう?」
 「うん」
そう言って、春香は部屋の電器を点(つ)けた。蒲団(ふとん)を敷き終わると、春香は、いったん冬樹を部屋から締め出して、パジャマに着替えた。
 パーン…。
西武線の音がいつもより近く聞こえるような気がした。
 《……》
パジャマに着替え終わった春香は、サッシに倚(よ)りかかり、遠い目で外を眺めていた。
 「おねえちゃん まだ?」
春香は、冬樹の声に我に返った。
 「あ、はいはい。ゴメンね、冬樹」
春香は、冬樹を寝かしつけ、自分は管理人室へ戻って行った。
 ぱたぱた…。
静まりかえった館内に、春香のスリッパの音が響いていた。そしてピンク電話の角に差しかかったとき、春香は足を止めた。
 「それで、一の瀬さんは大丈夫なのかな?」
管理人室から漏(も)れ出でる五代の声に、春香は耳を聳(そばだ)てた。
 「えぇ。確かに大金ですけど、一の瀬さん、しっかりしてらっしゃるから」
 「う〜ん…それにしても、なんだって一の瀬の旦那(だんな)さんは、連帯保証人になんかなったりしたんだろうな」
 《…連帯保証人?》
春香は思わず壁に貼りついて息を潜めた。



五 連帯保証人

管理人室のドアから漏(も)れる灯りが廊下の壁を照らしていた。春香は、灯りを避けて廊下に蹲踞(しゃが)みこんで、気づかれないように耳を聳(そばだ)てた。響子の声が続いた。
 「何でも、以前いた会社の同僚の方が独立して、事業をしていたらしいんですけど、最近の不景気のあおりで首が回らなくなったとか」
 「ふーん…でもどうして同僚ってことだけで、一の瀬の旦那(だんな)さんはそんなに肩入れするんだ?」
 「それはね、…どうも、その人って例のツル子さんの旦那(だんな)さまらしいんですよ」
 「ツル子さん?誰だっけ」
 「ほら。”掃きだめのツル子さん”」
 「掃きだめ…掃きだめ…。あぁ! あの一の瀬の旦那(だんな)さんがむかし憧れてたっていう、あの”ツル子さん”か」
 「そうなんです」
 「それにしても、よくあのおばさんが嫌な顔しなかったもんだな。だってある意味、おばさんの恋敵(がたき)なのに」
 「それが、一の瀬さんの旦那(だんな)さまは、初めはツル子さんのことは言わずに、すごく恩がある人だって説明してたみたいですよ」
 「ふーん…まぁ、男の哀しい性(さが)みたいなもんだな」
 「あら、そうなんですか?」
響子は五代の顔を覗(のぞ)きこんだらしい。五代の引き攣(つ)った声が聞こえてきた。
 「いや。ほ、ほら。あくまで一般論だよ。俺(おれ)は、そんな疚(やま)しいことなんてないぞ」
 「あら。誰もあなたが疚(やま)しいなんて、ひとことも言ってませんけど。ただ”そうなんですか?”って訊いただけです」
 「いや、その…ま、なんだ。…ほら。そ、それよりさ、150万は痛かったな」
 「でもまぁ、150万くらいでしたら、一刻館(ここ)の修繕積立金を崩さなくても、何とかなりましたし」
 「でも、これで五代家(うち)の貯金も殆(ほとん)ど無くなっちゃったな」
 「仕方ないですわよ。一の瀬さんにはいつもお世話になっているんだし、これも人助けです」
 「まぁな。これで春香が私立に行きたいなんて言わなければ、何とかなるかな」
 《!》
春香は思わず息を呑んだ。そしてそっとスリッパを脱ぐと、忍び足で玄関まで戻った。
 「それにしても、春香遅いですね」
 「そうだな」
 ぱたぱた…。
春香は、玄関からスリッパの音を思い切り立てて、管理人室のドアを開けた。
 「もう! 冬樹ったら言うこと聞かないんだから」
響子は湯のみを手に、春香を優しく迎えた。
 「あら、春香。遅かったのね」
春香は無理に笑顔を作った。
 「あ、ママ。あたしにもお茶ちょうだい」
 「はいはい」
五代は何事もなかったように、ふたりに背を向けてTVを観ていた。響子はちゃぶ台に手をついて立ち上がると、空になったポットを持って台所に立った。
 「ごめんなさい。お湯、切らしちゃったのよ。いま沸かすから、ちょっと待ってなさいね」
 「はーい」
春香は五代の方を盗み見た。いつもなら、大好きな五代と学校の話やTVの話で盛り上がるのだが、今はそんな気分にはなれなかった。春香はどこを見るともなく、黙って座っていた。五代は暫(しばら)くTVを観ていたが、春香が黙っているのが気になったのか、振り返ってちゃぶ台に座りなおした。
 「どうした?」
 「え?」
春香は、反射的に五代を見た。
 「なんだか元気ないみたいじゃないか」
 「ううん。そんなこと…」
春香は、何と答えたらいいか分からず、ぎこちない返事をした。
 「どうしたの? 春香」
響子も、やさしく春香の顔を覗(のぞ)きこんだ。
 「ううん。ホント何でもないの。ただいろいろと考えることがあって…」
 「なんだ、勉強のことか」
春香は、暫(しばら)く間を置いてから、黙って頷(うなず)いた。
 「それは志望校のことかな?」
 「そうね…どうしようかな」
春香は適当に返事をした。
 「それなら夏休みに業者の学力テストがあるんだろ? それから決めても、遅くはないんじゃないのか?」
 「そうね。そうしよっかな」
 ピー…。
薬缶(やかん)の音が鳴った。
 「あら、お湯が沸いたみたいね」
響子はいそいそと台所に走ると、火を止めて湯をポットに移し、茶を淹(い)れて春香に差し出した。
 「ありがと、ママ」
 「春香。そんなに心配することないわよ。あなた、成績悪いわけじゃないんだから」
 「……」
 「そうだよ。そんな気にすることないぞ」
 「……」
春香が黙っていると、響子はしたり顔で春香に迫ってきた。
 「ははぁん…。もしかしてあなた、周くんと同じ高校に行きたいとか、そんなこと考えてるんじゃないのかしら?」
 「え?」
 「周くんはあなたよりもすっと頭がいいですもんね。あの子なら、立川でも西でも…。もしかしたら有名私立にでも行くのかしら?」
 「何だ? 周くんって」
 「あら、あなた知らないんですの? 春香はね、そこの山本さん家の周くんのことが好きなんです」
 「ちょっ! ママ! あたし、そんなんじゃ…」
春香は、持っていた湯のみを置いて、響子の発言を強く否定した。
 「お前、そうなのか?」
 「んもう! パパまでそんなこと。あたしは違います」
 「あらあら。別にいいじゃないの、春香」
 「へぇ。そうだったんだ」
 「ホントに違うってば!」
春香は、思わず耳まで真っ赧(か)になってしまった。そんな春香を見て、五代は哄笑(こうしょう)した。
 「ははは…。分かった。分かったよ」
 「ホントに分かってくれたの? パパ」
 「あぁ。分かったから、お前は、その周くんと同じ学校へ行けるように、せいぜい頑張(がんば)んなさい」
 「パパ! 全然分かってないじゃないの!」
 「ははは…。」
五代と響子に揶揄(からか)われて、春香はこころが少し楽になったような気がした。



六 帰途

 カナカナカナ…。
蜩(ひぐらし)の哀しげな声が公園にこだました。もう空から鳥の姿は消えていた。黒目川は音もなく流れ、ところどころに打ち付けられた杭(くい)の周りに渦(うず)を作っていた。時おり渡る風は、川のほとりの蒼々(あおあお)とした草叢(むら)を波打つように靡(なび)かせた。まだ生温かったが、肌に滲(にじ)んだ汗を掠(さら)って心地よかった。周くんと七夏は黙っていた。春香も暫(しばら)く黙っていたが、躊躇(ためら)いがちに口を開いた。
 「あたし、高校なんかに行っていいのかな。ウチの貯金は、みんな一の瀬のおばさんに貸しちゃったのに…」
 「そっか。春香が”なんで高校に行くのか”なんて言ったのは、そんな訳があったんだ」
七夏(なのか)は静かに春香の手を握った。
 「…うん」
七夏は敢えて春香を見ず、黒目川の方を見やって、明るい声で春香を励ました。
 「大丈夫よ。だって、春香のお父さんもお母さんも、”高校へ行くな”なんて言わなかったんでしょ?」
 「…まぁね」
 「だったら、それは”行け”ってことなのよ。心配することないわよ」
 「う〜ん…あたし、分かんない」
 「だいじょぶ、だいじょぶ。気にすることないよ。ね?」
七夏は春香の頭をやさしく撫(な)でた。周くんは黙ってふたりの言うことを聞いていた。それに気づいた七夏が周くんに水を向けた。
 「山本ぉ。あんた、どうなのよ」
 「え?」
 「さっきからずっと黙っちゃってさ。あんたも春香に何か言ってあげなさいよ」
 「うん」
周くんは、極まり悪そうに鼻の下を指で擦(こす)りながら、春香に近づいてきた。
 「春香ちゃん…」
 「……」
 「そんなに考え込まないでさ、もう少し事実を客観的に押さえていこうよ」
 「え…事実?」
 「うん、そう。第一に、おじさんとおばさんが本当にお金に困っているのかってことさ」
それを聞いた春香は、肩を抱いている七夏を振り払うようにして、周くんに食いついた。
 「だって、一の瀬のおばさんに150万も貸しちゃって、ウチは貯金がなくなっちゃったんだよ? あたしが高校に行く余裕なんてあるわけないじゃない!」
興奮した春香を見て、周くんは肝を据えた。
 「春香ちゃんは、おじさんやおばさんから、そう聞いたのかな?」
 「…そんなこと、パパやママが言うわけないじゃない」
 「そうだろ? おじさんやおばさんは、春香ちゃんに”高校に行くな”とは、これっぽっちも言ってないのさ。なのにどうして春香ちゃんは、そんな風に決めつけるんだい?」
 「それは…それは以心伝心よ」
 「へぇ。こころが伝わっちゃったわけか。春香ちゃんは超能力者なんだ?」
そこへ七夏が口を挟(はさ)んだ。
 「ちょっと! さっきから聞いてれば、あんたってば、春香をイジメる気?」
周くんは、七夏のことばに少しも怯(ひる)まず、粛々(しゅくしゅく)と続けた。
 「ぼくは春香ちゃんが超能力者だとは思わない。やっぱりそういうことは、ひとつひとつ確かめてみなくちゃ分からないことだと思う」
 「…確かめるって、何を?」
 「春香ちゃんを高校に行かせるお金が本当にないのか、おじさんとおばさんと、ちゃんと話し合ってごらんよ」
 「それはちょっと…」
春香がことばを詰まらせると、七夏が春香を庇(かば)うように立ちはだかった。
 「ちょっと山本、あんた言いすぎよ。春香が困っちゃったじゃないの」
 「いや。これは重要なことだよ。僕は別に春香ちゃんを困らせてるんじゃない」
 「でも春香、あんたのせいで黙っちゃったじゃない!」
 「そんなことはないよ。僕は、まず第一に”真実を確かめなきゃ”って言っただけだよ」
 「それが余計だってのよ!」
 「じゃぁ何かい? 小日向(ひなた)さんは、春香ちゃんが高校に行かなくてもいいっていうのか?」
 「あたしはそんなこと言ってないじゃん!」
 「じゃぁ何だよ」
 「あたしは、春香に元気になってもらいたくて…ただそれだけだもん」
 「それじゃ何の解決にもならないだろ?」
 「そんなこと言って、あんた何様なの? 春香のこと、もっと優しくしてあげなきゃ駄目(だめ)じゃないのさ!」
 「あの…」
春香は、申し訳なさそうにふたりの間に割り込んだ。
 「あたし…パパとママに訊いてみる」
 『え?』
 「周くんに言われて、あたし、自分がただ怖くて逃げていただけのような、そんな気がしてきた。”ウチは貧乏だ”なんてのが何だか昔から染みついちゃっててさ。今回のこともさ、ちゃんとパパとママに訊いてみないと分からないことなのに、あたし自分で勝手に決め込んじゃったりして…」
 「春香ちゃん…」
 「春香…」
 「きょう訊けるかどうかは分からないけど、あたし勇気を出してちゃんと訊いてみる」
それを聞いた周くんの顔がやさしくなった。
 「そうだよ、春香ちゃん。そうじゃなくっちゃ」
 「うん」
春香は黒目川の方を見た。陽は大きく西に傾いていた。
 「もう帰ろ? あたしお腹(なか)空いちゃった」
 「そうだね」
 「じゃ、帰ろっか? 春香」
三人は公園を出て、時計坂に向かって歩き出した。



七 理科の宿題

 「はぁ…」
学校からの帰途、春香は、学力テストの成績表を見て、大きな溜(ため)息を吐(つ)いた。学力テストの後、公園で周くんと七夏に大見得を切ったものの、あれから一ヶ月経った今になっても、春香は、五代と響子にその真意を訊くことができないでいた。
 《どうしよ。テストの結果も出ちゃったし、三者面談の話もしなきゃなんないし。あぁ、ホントにあたしって駄目(だめ)だなぁ…》
春香は、重い足取りで時計坂を登っていった。時計坂から見下ろす街は、紅霞(こうか)に燃えてどこか寂しげだった。
 わー…。
幼稚園くらいの子どもが元気よく坂を下りてくるのに擦(す)れ違った。春香は、そんな子どもたちをやさしく見守ると、鞄(かばん)を小脇(わき)に抱えて坂を駆け上がった。
 「ただいまー」
春香が玄関で元気に声を張り上げると、1号室のドアが開いた。
 「春香ちゃんかい? おかえり」
一の瀬だった。一の瀬はタバコこそ咥(くわ)えていたが、最近は昼間から酒に酔うことはなくなっていた。
 「ただいま、おばさん」
春香はにこやかに答えた。そこへ響子が管理人室から出てきた。
 「おかえりなさい、春香。あら、一の瀬さんもいらしたんですか?」
 「まぁね。でも春香ちゃんも大きくなったよね。特に胸の辺りなんかさ」
 「やだ、おばさん」
 「ホント、あたしの若いころを思い出すよ。ガハハハ…」
春香は元気な一の瀬の姿を見て嬉(うれ)しかった。
 「春香。じゃ、手を洗ってからお上がんなさい」
 「は〜い」
 「一の瀬さん、お部屋でお茶でもいかがですか? おはぎ、作ってみたんですよ」
 「いや。悪いけど、遠慮しとくよ」
 「いいじゃありませんか」
 「あたしさ、まだ仕事があるんだよ。父ちゃんが帰ってくる前に、もうちょっとやっとこうと思ってさ」
 「まぁ、そうだったんですか」
 「まぁ、父ちゃんがこの歳になっても外で働いてくれてんのにさ、あたしがのうのうと遊んでるわけにはいかないじゃないか」
 「がんばってくださいね」
 「あぁ。ありがとさん。じゃ、また今度誘っておくれよ」
そう言って、一の瀬は部屋に戻っていった。
 「ママ。一の瀬のおばさんが仕事って?」
 「あら、あなたには話してなかったかしら? 一の瀬さんね、最近お部屋でできるお仕事を始めたのよ」
 「ふ〜ん。そうなんだ」
 「そんなことより、あなた冬樹の宿題みてやってよ」
 「何それ?」
 「何だか知らないけど、明日までにやらなきゃならないらしくて、もう大騒ぎなのよ」
 「そんなの自業自得よ。いい気味だわ」
 「そんなこと言わないで、お願いよ。さっきまであたしが手伝ってたんだけど、お夕食の準備もしなきゃなんないし、パパだってもう帰ってくるでしょ?」
 「はいはい。分かりました」
 「”はい”は一回ね」
春香は口角を引いて冷笑した。
 「は〜い」
 「助かるわ。今日のハンバーグ、あなたの1コ余分にあげるから」
 「ホント? ママ話せる♪」
響子と春香が部屋に入ると、ちゃぶ台の上に理科のプリントを広げた冬樹が、ごろんと寝っころがっていた。
 「あら、冬樹。もう終わったの?」
 「……」
冬樹は響子の方を一瞥(いちべつ)すると、寝返りを打って背を向けた。春香は、何枚かあるプリントをぱらぱらと捲(めく)ってみた。
 「あらやだ。冬樹、あんた全然やってないじゃない!」
 「え? ホントなの?」
響子がプリントを見ると、解答欄には、響子が先ほど書いてやった字がそのままになっていた。
 「冬樹。あなた、後でちゃんと自分の字に直しときなさいって言ったじゃないの」
冬樹は、響子の声が聞こえないかのように、寝っころがったまま膝(ひざ)を抱えた。
 「ちょっと、冬樹? ママの質問に答えないのは、とっても悪い子よ。ほら、何とか言いなさい」
冬樹は膝(ひざ)を抱えたまま、響子と春香の方に振り返った。苦虫でも噛みつぶしたような顔だった。春香は更にたたみかけた。
 「そんな顔したって駄目(だめ)よ。ママに何か言いなさいよ」
 「う〜…」
 「なによ?あんた、うなったからって許されるとでも思ってるの? ほら」
春香は、冬樹の体を無理やり引っ張り上げてちゃぶ台に座らせた。響子もちゃぶ台に座った。
 「冬樹? どうしたのよ。何か言いたいことがあるなら、ちゃんとママに言ってごらんなさい」
 「……」
 「ほら」
春香は冬樹の頬(ほお)をつねった。
 「いててて おねえちゃんイタイよ」
 「春香…」
響子はやさしく制止した。
 「どうしたのよ。あなた、さっきまであんなに大変だ大変だって騒いでたじゃないの。どうして宿題やらないの?」
冬樹はちらっと盗み見るように響子の顔を窺(うかが)うと、恐る恐る春香の方を見た。
 「なによ、その目。あたしが何か悪いことでもした?」
 「春香。いいから…」
 「あのさ…」
冬樹はやっと口を開いた。
 「どうして理科のベン強ってやらなきゃならないのかな?」
響子と春香は、冬樹の発言に要領を得ず、顔を見合わせた。
 「それはどういう意味かしら?」
 「算数だったら 時計を見たりお店に行ったりするとき やくに立つでしょ?」
 「そうね」
 「でもさ 理科ってイミがないと思うんだよね」
 「そんなことないわ。理科のお勉強はとっても大事なのよ」
 「でもさぁ 理科をベン強したからって お店でおつりが計算できる? 本がよめるようになる?」
 「それはできないけど、自然を知ることは重要よ」
 「そうかなぁ? 自ゼンなんか知らなくたって 生きていけるよ」
 「それは…」
ことばに詰まった響子は、春香に援(たす)けを求めた。
 「ねぇ、春香はどう思う?」
 「え?」
 「春香はいま学生なんだし、勉強してて何かいいことあったでしょ?」
 「そうね…」
春香はそう言ってはみたが、それ以上は何も答えられなかった。響子は軽く溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「困ったわね。しょうがないわ。パパが帰ってきたら、訊いてみましょ。それまでにあなたは宿題をちゃんとやること。いいわね? じゃ、春香。お願いね」
そう言うと、響子は慌(あわただ)しく台所に立って夕食の仕度を始めた。冬樹はぶつぶつ言いながらプリントを広げなおした。
 「おねえちゃん。じゃ これ教えて」
 「はいはい」
ふたりは宿題を始めた。春香は、こころのどこかで五代の帰りを待っていた。



八 勉強とハンバーグ

その日、五代は早く帰ってきた。今日の献立は、春香と冬樹の大好きなハンバーグということで、ふたりとも大喜びだった。ちゃぶ台に着いた冬樹は、春香の皿と自分のを見比べて、目敏(ざと)く響子に訴えた。
 「ねぇ、ママ。おねえちゃんの方が数が多くない?」
冬樹は春香のハンバーグを箸(はし)で指した。
 「これ! そんなお行儀悪いことするんじゃありません」
 「そうよ、冬樹。これはね、当然の報酬(ほうしゅう)なの」
 「トーゼンのホーシュー?」
 「そう。あんたはバカだから分からないでしょうけど、これはさっきあんたに勉強を教えたあげたご褒美(ほうび)なのよ」
 「えー! ごほうび? ずるいよ ママ。おねえちゃんばっかり」
響子は清(す)ました顔で冬樹の申し立てを往(いな)した。
 「冬樹は春香に勉強教えてもらったでしょう? 春香に感謝なさい」
 「そうよ、冬樹。ありがとうは?」
 「どういたしまして」
 「んまぁ! 憎たらしい」
ふたりの様子が険悪になってきたところで、五代が仲裁(ちゅうさい)に入った。
 「こらこら。お前たち已(や)めないか」
 「だって冬樹が!」
 「おねえちゃんが!」
五代は、腕を組んでふたりを睨(にら)んでから、勿体(もったい)ぶって響子に言った。
 「ふたりともそんなに喧嘩(けんか)が好きなら、ご飯を食べるのも面倒だろう。ご飯を取り上げなさい、ママ」
 「はい」
響子は、内心笑いを堪(こら)えながら、ゆっくりをふたりのハンバーグを下げようとした。
 『あ! ダメ!』
ふたりは慌(あわ)てて響子の手からハンバーグの皿を取り返した。ふたりの安堵(あんど)した顔を見て、五代と響子は声を上げて哄笑(わら)った。
 「もう! パパもママもそんなに笑うことないでしょ?」
 「そうだよ」
五代は腹を抱えながら、薄(う)っすらと涙を浮かべていた。
 「いやいや。ふたりともいい子だってことだよ」
 「パパ、ホントにそう思ってるの?」
 「うん。思ってる思ってる」
響子は、冬樹の茶碗が空になっていることに気づいた。
 「冬樹、おかわりは?」
 「うん。おかわり」
 「はいはい」
響子は、冬樹の茶碗に飯をよそいながら、さり気なく五代に尋ねた。
 「パパ?」
 「ん?」
 「なぜ子どもたちは、学校へ行って勉強しなくちゃならないんでしょうね?」
春香は箸(はし)を止めて、五代の方をじっと見つめた。
 「そうだな…でもなんでそんなことを急に?」
 「いえ。冬樹がね、算数は役に立つけど、理科は役に立たないから勉強しないって言うもんですから」
 「役に立たないって、例えば?」
 「例えば、算数は、時計を読んだりお店でおつりを計算したりするとき役立ちますけど、理科は、自然を知ったところで意味がないって言うんです」
 「あぁ、なるほど。そういうことか」
五代は、暫(しばら)く考える素振りを見せてから、冬樹に噛(か)んで含ませるように話し出した。
 「いいか、冬樹。勉強は、計算とか自然とか、表面的なことに囚(とら)われちゃいけないんだぞ」
 「ヒョーメンテキ?」
 「そうだ。学校で理科を習うってことは、勉強そのものが重要なんじゃなくて、もっと大事なことがあるってことだ。それを忘れちゃいけない」
 「大ジなことって?」
 「そうだな…例えば、いま冬樹が食べているご飯だけど、これは誰が作るのかな?」
 「ママ!」
 「ははは…そうだな。確かにそうだけど、ママはスーパーから材料を買ってきただけだ。そうじゃなくて、その材料は誰かが作ったんだ。それって誰だか分かるか?」
 「う〜ん。分かんない」
 「春香はどうだ?」
 「え?」
春香は、咄嗟(とっさ)に水を向けられて慌(あわ)てた。
 「の、農家のひとでしょ?」
 「そうだ。農家のひとだ。ところが残念なことに、ここに並んでいる食材の60%以上は日本で作られたものじゃないんだよ」
 「食糧自給率のことね」
 「そうだ。分かるか?冬樹」
 「ぜんぜん分かんない」
 「ここにあるご飯や肉、野菜は農家のひとが作るんだ。でも日本の農家が作ったものは、これくらいしかない」
そう言って、五代は冬樹の茶碗を持ち上げた。
 「じゃぁ、これは?」
冬樹は真っ先にハンバーグを指差した。五代は響子に尋ねた。
 「ママ、これはどこの肉?」
 「オージービーフです」
 「つまり肉はオーストラリアで作られているんだ。冬樹、オーストラリアって知ってるか?」
 「ううん」
 「オーストラリアってのは、海を越えたずっと遠い国だ。そういう所から来た肉を、お前たちは食べているんだよ」
冬樹は今ひとつ合点がいかない顔をした。
 「なんでさ、そんな遠いところからもってくるの? 日本のお肉でいいじゃん」
 「日本の肉だけじゃ、量が少なくて全然足りないんだよ」
 「ふ〜ん」
 「日本は、遠い外国からいっぱい肉を買ってくるから、こうやってお前たちがいっぱい食べることができるんだ。分かるか?」
 「うん」
 「でもな、冬樹。スーパーで肉を買うときにはお金が要るだろ? それと同じで、オーストラリアから肉を買ってくるときもお金が要る。そのお金はどうやって手に入れると思う?」
 「そんなのカンタンだよ。ギンコウからおろしてくるんだ。ぼく知ってるよ」
 「そうだな。ママはそうしてるかもしれないけど、普通はそうじゃなくて、何かを売って儲(もう)けたお金で買ってくるんだよ」
 「ふーん」
 「じゃぁ、日本は何を売ってお金を儲(もう)けてると思う?」
 「うーんと…分かった! モビルスーツだ」
 「ははは…。ガンダムとは違うよ。例えばアラビアの国々では石油が採れる。彼らは石油を売ってお金を儲(もう)ける。でも日本には、外国に売るような資源はない。じゃぁ、何を売るかが問題だ。春香は分かるか?」
 「そうね…。自動車とかかしら?」
 「そうだな。日本は確かに自動車を売っているけど、その材料は海外から輸入したものだ。つまり極端にいえば、自動車会社がやっていることは、材料を加工しているにすぎない」
響子は、五代の話を聞きながら、五代にそっと茶を出した。
 「あ、有難う。じゃぁ、日本は何でお金を儲(もう)けているんだろう?」
五代はそう言って再び春香を見た。
 「さぁ。分かんないわ」
 「冬樹は?」
五代はふたりの顔を交互に見回した。冬樹は頭(かぶり)を振った。五代は、乾いた口を茶で湿らせて、軽く咳(しわぶ)いた。春香は、固唾(かたず)を飲んで五代を見守った。
 「それは…教育だ」
春香は、五代の発言に身を乗り出さずにはいられなかった。



九 春香に残すもの

 「教育…?」
 春香は思わず復唱してしまった。五代は春香を真っ直ぐ見据(す)えて言った。
 「そう、教育だ。資源がない日本が世界に売れるものは、教育による頭脳とそこから生まれる技術しかないだろう」
 「じゃぁ、さっき表面的なことに囚(とら)われるなって言ったのは?」
 「勉強そのものが目的じゃないという意味だ。勉強を通じて、学ぶ悦(よろこび)び、知る悦びそして見出だす悦びを感じてほしい。それが重要なんだ」
 「見出だす悦(よろこ)び…」
 「そう。日本の資源と同じように、ウチには、お前たちに与えてやるような財産も資産もない。だから教育だけはしっかり受けさせてやりたいと思ってる。将来、お前たちが後悔しないようにな」
 「後悔って?」
 「人間、学んで感じることができる時期は、非常に限られている。それが今だ。もちろん社会人になって働き出しても、学ぶ機会はいくらでもある。でも多感な今の時期こそ、学ぶのにとても適しているとパパは信じている。だから、お前たちが社会人になったとき、あぁ、あのときもっと勉強しておけばよかったと後悔しないように、今のうちにできるだけ勉強をさせてやりたいんだ」
 「あのね」
春香は、とつぜん思い余って五代のことばを遮(さえぎ)った。
 「あたし…あたし、今までパパやママに言えなかったことがあるの」
 「ん?」
五代は、響子の方を一瞥(いちべつ)してから、やさしく春香を見守った。響子も湯のみを手に、静かに春香を見ていた。
 「あたし、聞いちゃったの。パパとママが一の瀬のおばさんに150万円貸しちゃって、ウチにお金がなくなっちゃったこと」
 「まぁ…」
響子は少し驚いたようだった。春香は続けた。
 「それで…それで、もしかしたら、あたし、高校に行っちゃいけないんじゃないかと思って…。もちろん勉強はしてたけど、高校のこととか一切考えないようにしてさ。そしたら七夏(なのか)に変だって言われて…それに周くんにも」
春香の声が段々くぐもってきた。五代も響子も何も言わなかった。春香がすべてを吐き出すのを待っているかのようだった。
 「学校じゃ、みんな高校のこととか話してて…でも…あたしはそんなこと考えちゃいけないって。あたしが高校に行ったら、すっごくお金がかかって、それでパパやママに迷惑がかかるから、そんなこと…そんな…」
春香は、噎(むせ)ぶように声を詰まらせて、ときどき涙を拭(ぬぐ)うように目に手を当てた。
 「春香…」
響子はやさしい声で春香を慰めた。
 「あたしたちが何も言ってないのに、どうしてそんな風に考えるの?」
 「だって…」
 「今パパが言ったでしょ? あたしたちがあなたたちに残してあげられるのは、教育しかないのよ。高校には行かなくちゃ」
 「でもいいの? 高校へ行ったら、義務教育と違ってお金がかかるんだよ? それでもいいの?」
 「春香、お聞きなさい」
 「……」
 「あなたも知ってると思うけど、ママはね、高校しか卒業してないのよ」
そこまで言って、響子は目を伏せ、躊躇(ためら)うように五代の顔を見た。五代は、黙ったまま響子の手を握って、にっこり微笑んで小さく頷(うなず)いた。響子は、切なく寂しそうに微笑み、やさしく五代の手を返した。そして話を続けた。
 「高校を卒業して、1年半くらい経って一刻館(ここ)の管理人を始めて、そこで大学に通うパパと知り合ったの」
春香は、くすんと鼻を啜(すす)りながら、響子の話に耳を傾けていた。
 「あれは、パパの大学の文化祭だったかしら。あたしがパパの人形劇サークルでお姫さまの役をすることになって…、そのとき、大学の雰囲気(ふんいき)をちょっと味わうことができて、実はとっても嬉(うれ)しかったのよ。あぁ、大学ってこんなところなんだってね」
 「……」
 「それでね、ママが今でも思うことは、ママも大学に行ってたら、もっと素敵な世界を知ることができたんじゃないかってこと」
 「素敵って、パパと結婚して駄目(だめ)だったってこと?」
五代は、春香のことばに思わずひとり苦笑した。
 「いいえ。そういう意味じゃなくて、今この現実をもっといろんな角度から見る目が養えたんじゃないかってことよ」
 「いろんな角度から?」
 「そう。現実ってのはね、ひとつじゃなくて、いっぱいいっぱいあるのよ。でもあたしには、それが見えてこないの。これってね、とっても切ないことなのよ」
 「ふ〜ん。そんなに言うなら、ママも大学に行けばよかったじゃない」
 「それは…」
響子はことばに詰まり、申し訳なさそうに五代の方を振り返った。五代は飲んでいた湯のみを置いて、徐(おもむ)ろに話しはじめた。
 「大学に行かなかったママが、ここまで後悔しているんだ。分かるか? 春香。だからお前には、こんな思いはさせたくない。これがママの願いであり、パパの願いでもある」
春香は衿(えり)を正して座った。
 「はい」
 「一の瀬さんに150万貸して、ウチの貯金がほとんど底を突いたのは事実だ。でもな、お前の学費くらいは十分ある。ママ…」
五代はそう言うと、響子に目配せした。
 「はい」
響子は、押入れから通帳を取り出すと、春香の前に置いた。春香は通帳を手にとって名義を見た。
 「五代…春香?」
響子は春香の肩をやさしく抱いた。
 「中をご覧なさい」
 「え?」
春香は、言われるままに、通帳を開いた。すると驚いたことに、100万単位の預金があった。
 「これは…」
春香が通帳に目を通すと、最初に入金された1000円の日付は、1988年4月だった。その後、毎月1万円ずつきちんと入金されており、今年の9月現在、残高は170万を超えていた。
 「あの…これ…」
五代は胸を張った。
 「それは、お前の学費だ」
 「でも、さっきウチの貯金は底を突いたって」
 「あぁ。それは別会計だ。その貯金はウチの貯金じゃない。お前の物だ」
 「パパ…」
春香の胸に、突然熱いものが込み上げてきた。響子は、春香の肩をそっと抱き寄せ、頭を撫(な)でた。
 「安心なさい。あなたは高校へ行ってうんと勉強するの。そして将来は大学へ行って、ママの分まで人生を楽しんでちょうだい」
 「うん…うん…」
春香の声は、返事とも呻吟(うめ)き声ともつかなかった。その肩は、呼吸に合わせて小刻みに戦(ふる)えていた。
 「おねえちゃん もしかしてないてるの?」
冬樹が意地悪そうに春香の顔を覗(のぞ)きこんだ。
 「な、泣いてなんか…」
春香は、そこまで言いかけて少し間をおき、にっこり笑って舌を出した。
 「泣いてるんじゃないの。こころが汗をかいているのよ」
 「なんだ? そりゃ」
冬樹は狐につままれたような顔をした。その横で、五代は満足そうに腕を組んだ。
 「ほぉ、春香。お前、よくそんな古いことば知ってるな」
 「パパ。おねえちゃんって古いの?」
 「あぁ。パパが春香くらいの年頃に、そんなことばが流行ったもんだな」
 「へぇ、そんなに古いんだ」
すると春香は得意気な顔をして言った。
 「そりゃぁ、あたしは一刻館(ここ)の子だもんね♪」
 「まぁ、この子ったら」
 「ははは…」
冬樹を除いた全員が笑った。冬樹は、三人の顔を交互に見ていたが、少し不機嫌そうだった。
 キンキンキン…。
庭の草叢(むら)では、カネタタキの澄んだ声が響き、虫たちの合唱は、みんなで春香を励ましているようだった。(完)