春香の描いた絵



作 高良福三

序 濡鼠(ぬれねずみ)

 ザー…。
雨の勢いが益(ま)してきた。赤紫色に色付いた八仙花(あじさい)はその彩りを鮮やかにし、雨粒は桑の大きな葉にぱたぱたと音を立てて揺らしている。風はときおり強く吹き、建て付けの悪い窓をガタガタと震わせる。天(そら)は古綿色の雲が低く垂れ込め、飛ぶ鳥の姿も見られない。唯(ただ)ときおり雨音だけが緩(ゆる)やかな波を打つように聞こえてくる。今日の雨は梅雨時にしては劇(はげ)しかった。
 ピカッ…。
鈍い稲妻が雲の輪郭を淡く浮き上がらせる。
響子は春香のことを心配していた。
 《あの子、大丈夫かしら?》
食器棚の上の赤いデジタル時計は15時を過ぎていた。そろそろ小学校が終わる時刻だ。響子は雨のことが気になってTVを点(つ)けてみた。
 「ここで台風情報をお知らせします」
 「小型で強い台風7号は、和歌山県潮岬の南南東を時速50kmで北北東に進んでいます。中心気圧は970hPa(ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速は30mで、東側90km以内と北西側70km以内では25m以上の暴風となっています。台風は今後東海地方に上陸する虞(おそ)れがあり、また今夜にかけて関東甲信越地方では、風速20から25mの暴風となります。尚(なお)、伊豆諸島や関東地方沿岸部では、波の高さが6から7mの大時化(しけ)の状態となるため、気象庁では警戒を呼び掛けています」
 「では和歌山県潮岬から中継でお伝えします…」
 「まぁ! 大変だわ。こんな日くらい休校になればいいのに…」
 ビュー…。
風の勢いが急に強くなった気がする。響子の心配は次第に募ってきた。
 ガタンッ…。
玄関の扉が開く音がした。
 「ママ、ただいまー」
響子が一目散に玄関に駆け寄る。
 「春香! 大丈夫だった?」
 「えっへへー」
春香は雨合羽(がっぱ)を着て行ったのにも拘(かかわ)らず、全身泥だらけだった。
 「あなた、どうしたの?その恰好(かっこう)!」
 「ト中で転んじゃった♪」
春香は転んだと言った割には楽しそうだった。持っていたミッフィーの傘もお猪口(ちょこ)になっていた。
 「あら! 傘までそんなになって…」
 「だって風が強かったの」
春香は悪びれる様子がない。
実は春香は学校からの帰り途(みち)、近所に住む周くんと嵐の中を遊びながら帰って来たのだった。濁流が流れる側溝に態(わざ)と足を突っ込んでみたり、雨で濡れた公園の丘を滑り台にしてみたり、突風に向かって傘を振り回してみたり。春香はメリー・ポピンズのように空を飛んでみたかったのだ。
 「まぁまぁまぁ、これじゃお部屋に上がれないわ。春香、今タオル持ってくるから、ちょっとあなたそこで待ってなさい」
 「はーい♪」
 パタパタ…。
響子はすぐさま薬讙(やかん)で湯を沸かすと、洗面器に微温湯(ぬるまゆ)を張り、5号室からバスタオルを持ってやって来た。五代がいなくなった5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋になっているのだ。
 「ほら、あなた早く合羽脱ぎなさい」
 「え〜」
 「春香! 我がまま言うんじゃありません!」
 「は〜い」
春香は渋々雨合羽を脱ぎ始めた。玄関の三和土(たたき)に泥水が滲(し)み広がる。
 「あらあら。あなた、中もどろどろじゃない。ほら」
響子はバスタオルで春香の顔と頭を拭(ふ)いてやると、服の泥水を撥(はじ)いてやった。しかし春香は顔どころか、中の服まで泥水でびっしょりと濡れていた。
 「これじゃタオルで払ったって駄目だわ。春香。いいからここで服、脱いじゃいなさい」
 「え〜!? ここで〜?」
 「いいから早く脱ぎなさい。ほら、靴下も…」
春香はパンツ一丁になり、響子に体を拭いてもらっていた。
 「ほほぉ…。春香ちゃんのストリップショーですな」
階段の踊り場から四谷が顔を覗(のぞ)かせた。
 「よちゃーさん♪」
 「”よちゃー”ではありません。”よ・つ・や”です。いつになったら覚えて下さるんです?」
 「四谷さん! これは見世物じゃありませんよ!」
 「まぁまぁ、そんなこと仰らずにお写真でも一枚…」
 「四谷さん!」
響子は物凄い剣幕で四谷を階段に押し込めるように追い払った。
 「んもう! カメラなんかどこから持ってきたのかしら」
 「はくしょっ」
パンツ一丁で放置されていた春香がくしゃみをした。
 「あら大変。すぐ足を拭くから、あなた5号室に行って服を着て来なさい」
 「パンツも替えるのよ」
 「はーい♪」
5号室には鏡台や洗濯籠(かご)も置いてあり、通常の着替えは5号室で行われていた。
 「あ〜あ。まぁまぁまぁ…」
響子は泥だらけになった春香の服を摘み上げた。
 《この分だと、あのひともきっと大変だわ…》
汚れた服を持って、響子は5号室に向かった。



一 翠風包(なつのあらし)

その日の夜、雨は更に強まっていた。
 「ただいまー」
五代の声がした。響子はバスタオルを持って急いで玄関に向かった。
 「あぁ、ひでぇひでぇ」
五代はずぶ濡れになったズボンの裾(すそ)を摘んでは絞っていた。
 「あなた、大変だったでしょ? これ、どうぞ」
 「あ、ありがとう」
五代はバスタオルで肩や腕に付いた雨水を払ったが、ズボンはびしょ濡れでどう仕様もなかった。五代は靴下を脱いで足を拭くと、仕方なくその場でズボンを脱いで、腰にバスタオルを巻いた。
 「いやぁ、ホントに参ったよ。傘なんか差してたって全然役に立ちゃぁしない。何なんだよ、この雨は」
 「台風が近付いているそうですよ」
 「台風!? あぁ、道理で…」
響子は心配そうに言った。
 「今日ばっかりは心配だったんです。台風が直撃しそうだし、いつもより窓の音が五月蝿(うるさ)いみたい」
五代と響子は管理人室に向かった。
 「とにかくニュースを観てみよう」
 「パパ、おかえりなさーい♪」
 「パパー♪」
管理人室のドアを開けると、春香と冬樹が元気に出迎えてくれた。五代は少しほっとした。五代はバスタオル姿のまま四つん這(ば)いになってTVのスイッチを入れた。五代が帰って来た時間帯はニュースをやっていなかった。
 「しょうがないな。9時まで待つか」
響子は替えのズボンを5号室から持ってきて五代に渡した。その様子を見て春香が笑った。
 「パパ、カッコ悪―い♪」
 「何言ってるの! 春香だってパンツまでびしょびしょだったでしょ?」
春香の表情が俄(にわ)かに一変する。
 「あーっ、ママ。それは言わないで〜!」
響子はほくそえんだ。
 「あら。春香ったら恥ずかしいの?」
 「パパの前でへんなこと言わないでってば〜!」
春香は、響子の手痛い仕打ちに地団駄(じだんだ)を踏んだ。五代と響子が笑う。春香は耳まで真っ赤にして益々(ますます)恥ずかしがった。
 「ママの意地悪!」
春香は五代のことが大好きだった。春香にとって五代は世界一のパパだ。異性としての憧憬(しょうけい)も、少しずつではあるが芽生え始めていた。だから五代に自分の恥を知らされた怒りは大きかった。
 「まぁまぁ」
五代が春香を宥(なだ)めた。
 「ママ! ごはん、まだ?」
冬樹は夕方からずっと待っていたのに、五代が帰って来ても夕食が食べられず、大層ご機嫌斜めのようだった。
 「あら、いけない! 冬樹、すぐご飯にしますからね」
響子は手早く夕食を仕上げるとちゃぶ台の上に並べた。
 『いただきまーす♪』
今日の夕食はオムライスだった。響子は五代に気兼ねしていた。
 「あなた。お夕食、こんな物で済みません」
 「いやぁ、そんなことないよ。このオムライス、とっても旨いよ」
 「いえね、春香が今日どうしてもって言うもんですから」
春香は大好きなオムライスが食べられて上機嫌だった。冬樹も両手を使って不器用にオムライスと格闘していた。そんな冬樹に五代が優しく話し掛けた。
 「オムライス、冬樹も大好きだもんな?」
 「うん♪」
冬樹は口の周りにケチャップをべったり付けながら嬉しそうだった。
 「ほら、冬樹。ご飯こぼすんじゃありません」
響子は冬樹の零したチキンライスを手早く拾いながら自分の口に運んだ。
 ビュー…ガタガタ…。
食事をしている間にも風はどんどん強まっていった。響子はまた心配になった。
 「あなた、一刻館(ここ)大丈夫かしら?」
 「う〜ん。今までも台風くらいあったろうからな」
 「でも、あたしが管理人を始めてからこんな酷い嵐はなかったし」
 「…そうだな」
五代は赤いデジタル時計を見た。
 「あ、8時45分だ。ニュースがやってるかもしれないぞ」
 「そうね」
響子がTVのスイッチを入れた。
 「ここで台風のニュースをお伝えします」
 「小型で並みの強さの台風7号は午前11時半愛知県に上陸し、速度を上げながら東北東に進んでいます。中心気圧は980hPa(ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速は30mで、東側90km以内と北西側70km以内では25m以上の暴風となっています。関東甲信越地方では、今夜にかけて風速20から25mの暴風となり、また伊豆諸島や関東地方沿岸部では、波の高さが6から7mの大時化(しけ)の状態となるため、気象庁では警戒を呼び掛けています」
 「では、現在の名古屋港の様子をお伝えします…」
 「あら! この分だと関東直撃だわ!」
 「そうだな」
 「あなた、どうしましょう」
 「大丈夫だって。何しろ一刻館(ここ)は音無のじいさんが子供の頃から建ってるんだろ?そう滅多なことじゃ…」
 ガシャーン…。
突然ガラスが割れる音がした。
 「あなた!」
 「うん。ちょっと様子を見てくる」
五代は管理人室から廊下に出た。湿っぽい空気を感じるとともに猛烈な風の音が聞こえてきた。
 「何だい何だい」
1号室のドアが開く。
 「あ、一の瀬さん」
 「どうしたんだよ、一体」
 「おばさんの部屋ではありませんでしたか?」
 「ウチは何ともないよ。それにしても今、凄い音がしたねぇ」
 「おっかしいなぁ。廊下の窓硝子(ガラス)は何ともないな。2階かな?」
 「とにかくさ、2階に行ってみようよ」
 「はい」
ふたりは大急ぎで2階に上がった。2階の廊下も何ともない。5号室か。五代は5号室のドアを開けて見たが、特に異変はなかった。ふたりは4号室のドアを敲(たた)いた。
 「四谷さん、四谷さん!」
 ガチャ…。
 「どうしたんです? おふたりで」
 「四谷さん! 窓硝子が割れませんでしたか?」
 「はい。私の部屋は異状ありませんが、何か?」
確かに四谷の部屋に異状はなかった。船箪笥と長火鉢の向こうにはTVがあり、「うる星やつら」のビデオが流れていた。
 《じゃぁ、空き部屋か!》
五代は踵(きびす)を返して管理人室に戻った。
 「あなた! どうでした?」
 「響子。鍵(かぎ)、鍵!」
響子は急いで全室の鍵束を五代に渡した。五代が2号室に急ぐ。
 「えーっと…2号室、2号室…」
五代は慌てていて2号室の鍵がどれだか分からない。
 「あ、あった!」
 ガチャ…。
五代が2号室のドアを開ける。2号室は何ともない。
 「次は3号室だ!」
 ガチャガチャ…。
 「3号室、3号室…これだ!」
 ガチャ…。
 ビュー…。
 「ぅわ!」
 「あぁ! やっぱりここだよぉ」
一の瀬が五代の背後から大声を上げた。3号室の窓硝子は折れた木の枝で突き破られ、猛烈な風が吹き込んでいた。
 「これか!」
そこへ一の瀬の声を聞きつけた響子たちが飛んで来た。
 『パパ、どうしたのー?』
 「まぁ! 大変!」
響子が3号室に入ろうとする。
 「来るな!」
五代が響子を制した。吃驚(びっくり)して響子は凝固してしまった。
 「硝子(ガラス)が危ないから」
五代はそう言うとスリッパのまま3号室に入り、注意深く木の枝を差し戻した。吹き込む風が更に勢いを益す。
 「わ!」
土砂降りの雨粒が五代の顔にかかる。
 「五代くん、それ、どうすんだい?」
 「取り敢えず窓を外して蓋(ふた)をします。響子、何か板を!」
 「はい!」
響子は屋根裏に走ると、補修用の板材と梯子(はしご)を持ち出した。響子が3号室に戻って来たときには、既に窓は外されていた。  「あなた! 板です」
 「ありがとう」
五代はスリッパのまま窓枠から外に出ると、敷居(しきい)と長押(なげし)の間を板で打ちつけた。
 カンカン…。
暴風雨の中作業する五代の姿を、響子と一の瀬は固唾(かたず)を飲んで見守っていた。春香と冬樹はこの非常事態に興味津々だった。
 「パパ、なにやってるのー?」
 「パパは大工さんよ♪」
 「だいくさん?」
 「そう」
 「だいくさんって なに?」
 「う〜ん…。トンカチでたたく人!」
 「トンカチ?」
 「冬樹、トンカチも知らないの?」
 「うん」
 「あれで頭たたくといたいのよ」
 「え〜、やだよ」
五代が外で板を打ち付けている間、響子は思い立って部屋に散った硝子の破片を箒(ほうき)で掻(か)き集めた。子供たちは響子の行動にも興味津々だった。
 「ママ! なになに?」
 「ほら。ガキは危ないから入るんじゃないよ」
一の瀬がふたりを制した。
五代と響子のお蔭で、3号室は何とか現状を恢復(かいふく)した。五代がスリッパ姿で玄関から戻ってきた。全身びしょ濡れだった。響子は急いで5号室に走り、五代の着替えとバスタオルを用意した。
 「はい、あなた。お疲れさまです。どうぞ」
 「ありがとう」
五代は頭と足回りを拭くと、取り敢えず3号室の様子を見に入った。
 「ま、こんなもんですかね」
 「あぁ、ご苦労さん。いやぁ、やっぱ男手があると助かるねぇ」
 「全くその通りでげす」
 「よ、四谷さん!」
 「私、2階の窓から五代くんの働いている姿を眺めておりやんした。五代くんは偉い!」
 「いやぁ、偉い偉い。あははは…」
一の瀬が哄笑(こうしょう)した。
 「じゃぁ、3号室も片付いたということで、ぱーっと行こうかね、ぱーっとさぁ」
 「おばさん、えん会やるの?」
 「そうだよ、春香ちゃん」
 「やったー☆」
すると響子が口を挟んだ。
 「でもまだうちはお食事が済んでいないんです」
 「そんなこたぁ、どうだっていいじゃないか」
 「いいじゃないか☆」
 「これ! 春香!」
 「とにかくさぁ、こんな日は飲んで騒いだ方が好いんだよ」
 「では、参りますかな」
 「あ、あんたらなー!」
 「五代くんも着替えが終わったら、ちゃんと管理人室に来るんだよ」
 「誰の部屋だと思ってるんですか!」
 「あははは…」
 「んもう!」
ということで、今夜も管理人室は宴会部屋として占拠されてしまった。
  
  
  
  二 台風一過(いっか)
  
次の日は昨日と打って変わって好天に恵まれた。薄い雲はあるものの、蒼穹(あおぞら)は一面に晴れ上がり、強烈な夏至(げし)の太陽が一刻館の影を強烈に刻み込んでいた。正に台風一過だった。
五代は屋根に上がって吹き飛んだ瓦(かわら)がないか確認することにした。
 「あなた。気を付けて下さいねー」
玄関の庇(ひさし)の上から梯子を立て掛けて五代が登って行く。
 「あぁ。大丈夫、大丈夫」
五代は頭に手拭(てぬぐい)姿であった。それでも額やこめかみから汗が滴り落ちる。屋根瓦は完全に乾いて昨日の台風が嘘のようだった。その一枚一枚が灼(や)けた鉄板のように熱気を発していた。
 「あちー」
五代は北側の面から確認作業を始めた。瓦は強烈な陽射しに照り輝いて規則的な光の波を形成していた。
 「どうやらこっちは大丈夫そうだな」
五代は熨斗瓦(のしがわら)を跨(また)いで南側の屋根に足を踏み入れた。屋根からは時計坂の景色が一望できた。
 「いやー。ここから眺めるとホント好い景色だ」
光輝く家々の屋根にところどころ雲が影を落とし、その向こうには西武線が一線を画していた。汗ばんだ体に吹く風も心地よい。そこかしこに見える木々は新緑が目に沁(し)みるようだった。
 「おっと。そんなことより瓦、瓦と」
五代は南側の瓦を点検しだした。
 「昨日、3号室が遣られたからな。こっちの方は特に良く視ないと」
五代は南西側の瓦から作業に取り掛かった。案の定、6号室の上辺りの瓦が数枚割れていた。
 「やっぱり…」
五代は割れた瓦を回収すると、残りの部分も調べてみた。
 「うん。あそこだけで後は特に問題なさそうだ。作業完了!」
五代はまた熨斗瓦を越えて北側の屋根に戻ると、下にいる響子に叫んだ。
 「やっぱり瓦、割れてたぞー」
 「お疲れさまでーす」
五代は割れた瓦を小脇(わき)に抱え、慎重に梯子を降りた。そして取り敢えず割れた瓦を流し台に置くと、新しい瓦を取りに屋根裏に向かった。屋根裏は本来時計部屋なのだが、響子が来てから一刻館の補修用の資材置き場になっている。
 「瓦、瓦。瓦はどこだ?」
五代は屋根裏を瓦を探してうろつき回った。しかし瓦を見付けることはできなかった。仕方なく流し台に置いた瓦を手に、管理人室に戻ることにした。
 「パパー♪」
冬樹が五代に抱きついた。春香は小学校に行っている。五代は割れた瓦を持っている都合で、冬樹を近寄らせたくなかった。
 「こら。ちょっと冬樹、危ないから近づくなよ」
冬樹は五代の持っている物に興味を示した。
 「パパ、それなーに?」
 「あぁ。これは瓦だよ。屋根の上に載っかってるヤツ」
 「もちたい」
 「駄目だよ。割れてて危ないから」
 「んんんー! もちたいー」
そこへ響子が割って入った。
 「これ、冬樹! 我がまま言うんじゃありません」
五代は瓦を冬樹の目から早く隠そうとした。
 「響子。これ、どうにかしといてくれないか?」
 「はい。じゃぁ、この袋に入れて下さる?」
響子はスーパーの紙袋の口を開けて、五代に瓦を入れるように指示した。
 カチャン、カチャン…。
五代は慎重に瓦の破片を紙袋の中に落としていった。そして全部の破片を袋に入れると、響子は紙袋を燃えないゴミの袋に入れて表に出した。これで隠蔽(いんぺい)工作は完了した。
 「響子。瓦の買い置きってあったっけ?」
 「いえ。流石(さすが)に瓦は置いてませんけど」
 「じゃぁ、注文するか」
 「あなた。どこの瓦が割れてたんです?」
 「うん。6号室の上くらいかな」
 「たーいへん。じゃぁ6号室、きっと雨漏(も)りしているわ」
響子は雑巾をもって6号室に走った。6号室は確かに雨漏りしていた。しかし漏った雨水は畳に吸収されており、雑巾で拭いても埒(らち)が明かなかった。
 「しょうがないわね。畳を干すしかないかしら」
響子は6号室の窓を開け、屋根裏から持ち出した縁引(へりひき)で畳を外すと、五代を呼びに階下(した)に行った。
 「あなた。ちょっと手伝って下さらない?」
 「ん? どうした?」
五代と響子は6号室の畳をふたりで運び、物干し台に並べた。
 「これでいいわね」
今日の陽射しは強いので、暫(しばら)く干せば大丈夫そうだ。
 「それじゃぁ、そろそろお昼にしましょうか」
 「そうだな」
五代一家は昼食を摂り、後片付けも済んで一服していた。
 「昨日といい今日といい、あなたのお蔭で助かったわ」
 「いやぁ。あれは響子に遣らせる訳にはいかないよ」
 「ホントありがとうございます」
 「いやいや」
 ジリリン…。
そこへ突然黒電話が鳴った。響子は湯呑みを置いて、いそいそと電話口に向かった。
 「もしもし、五代でございますが…」
 「あー、響子さん? 儂(わし)だよ」
 「まぁ、お義父さま」
 「うん。いやね、昨日、台風が酷かったろう。それで一刻館(そっち)のことが気になってね」
 「大丈夫だったかね?」
 「それが3号室の窓硝子が割れまして、それから6号室が酷い雨漏りで、いま漸(ようや)く一段落したところです」
 「いや、それは大変だったな。それじゃ、明日にでも様子を視に行くか」
 「あら、そんな。お義父さま、どうぞお気遣いなく」
 「いや。今のところ一刻館(そこ)は一応まだ儂が大家だからな」
 「あら、そんな。それでは明日お待ちしております」
 「ん。五代くんにも宜しく言っといてくれたまえ」
 「えぇ。それでは失礼いたします」
 「じゃぁ」
 チン…。
五代は電話の内容が気になっていた。
 「音無のじいさん、何だって?」
 「明日、お義父さまが一刻館(うち)にいらっしゃるそうです」
 「何で?」
 「一刻館(こっち)の様子が心配なんですって」
 「あぁ、なるほど」
 「でも都合が好いじゃないか
」  「”都合が好い”ってどういうことです?」
 「だって一刻館(ここ)の修繕費、どっちにしろ音無のじいさんに請求しなきゃなんないだろ?」
 「まぁ、それはそうですけど」
 「とにかく明日、音無のじいさんに見てもらおうよ」
 「そうですわね」
 「響子。悪いけどお茶、もう一杯淹(い)れてもらえないかな」
 「はいはい」
響子は台所へ向かった。
  
  
  
  三 音無氏、来(きた)る
  
次の日、音無老人は一刻館の玄関に立っていた。
 「御免!」
 ダダダ…。
廊下の向こうから走り寄る音がする。
 「音なしのおじいちゃん!」
 「やぁ、春香ちゃん。元気かな?」
 「はい♪」
 「これ、春香! ちゃんとご挨拶(あいさつ)なさい」
 「済みません、お義父さま」
 「いやぁ。子供は元気な方が好いんだよ」
音無老人は満足そうに春香の頭を撫(な)でた。毎年惣一郎の命日と彼岸に音無家に立ち寄っている関係で、春香は音無老人によく懐(なつ)いていた。そんな春香の姿に、音無老人は幼い頃の郁子の面影を見ていた。そのためか、春香のことを自分の孫のように可愛がっていた。
 トタトタ…。
春香に遅れて冬樹もやってきた。
 「おぉ。冬樹くんも来てくれたか」
 「ママ。これ、おとなしのじいさん?」
 「!」
響子は突然の出来事に何も言えなかった。五代がいつも「音無のじいさん」と言っているのを、冬樹は耳で覚えていたのだ。響子は慌てて冬樹の尻を叩(たた)いた。
 「これ、冬樹! お義父さまに向かって何てこと言うの!」
 「わー!」
冬樹は悪気がないのに急に響子に叩かれて、訳が分からず泣き出してしまった。
 「まぁまぁ、響子さん。そんな叱(しか)らんでも」
 「お義父さま。何とお詫(わ)び申し上げてよいやら」
 「かっかっか…。気にすることはないよ。恐らく五代くんが儂のことをそう呼んでいるんだろう?」
 「えぇ…いえ。そんなことは」
 「大体の察しは付くよ。まぁ、どこからどう見ても”じいさん”だからなぁ」
 「あの、本当に申し訳ありません」
 「いいよいいよ。では、早速被害の状態を見させてもらうかな?」
 「お義父さま、お疲れじゃありませんこと? 先ずは管理人室で休んでいって下さいな」
 「うん。響子さんがそう言うんならそうするか」
響子は泣きじゃくる冬樹を抱き上げて宥め賺(す)かしながら、音無老人を管理人室に案内した。管理人室では五代が音無老人を出迎えた。管理人室では五代が待っていた。
 「どうもこの度は態々(わざわざ)来ていただいて有難うございます」
 「いやぁ。これも大家の務めだよ」
 「さぁ、どうぞ。こちらへ」
五代は音無老人を窓際の上座に案内した。
 「よっこいしょ。やれやれ」
音無老人は腰を傷めないように慎重に座ると、安堵(あんど)の溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「お義父さま、どうぞ」
響子が茶を淹れて出した。
 「あぁ。悪いな、響子さん」
音無老人は少し冷ました茶を旨そうに喝(の)んだ。
 「ときに五代くん、一刻館(ここ)の被害状況はどうかね?」
 「はい。特に南西側の被害が著しいですね」
 「ほぉ…」
 「3号室の割れた窓硝子は外して板を打ち付けましたし、6号室の雨漏りは瓦が届くまで一応防水用のビニールシートを張ってあります」
 「そうかそうか。大変だったろう?」
 「いえ。これも響子を管理人として任せていただいているので、当然の務めかと」
 「一刻館(ここ)も老朽化が進んでいるからなぁ」
音無老人は畳に手を付くと、縁側越しに蒼穹を見上げた。物干し台には鶺鴒(せきれい)が留まり、長い尾をゆっくりと上下させては、きょろきょろと周囲を見回していた。
 「どれ、そろそろ見に行くか」
 「さぁ、お義父さま」
立ち上がろうとする音無老人に、響子が自分の肩を貸した。
 「いやぁ。済まんね」
三人は管理人室を出ようとしたが、五代が思い付いたように振り返った。
 「あ、春香。悪いけど、冬樹と一緒に管理人室(ここ)でお留守番しててくれないか?」
 「いいよ☆」
 「じゃぁ、頼んだよ」
 パタン…。
五代は廊下を歩きながら、音無老人に説明を始めた。
 「屋根の方は外から見ることにして、先ず3号室にご案内します」
 「うん。そうするか」
 「一昨日のことなんですが、突然木の枝が飛んで来まして、窓硝子を貫通してしまったんです」
 「ほぉ」
 「それで取り敢えず窓ごと外して、外側から板を打ち付けてあります」
3号室に着くと、響子が鍵を開けた。
 「や。これは…」
3号室の窓は外側から板を打ち付けているため、中は真っ暗だった。唯板と板の隙間から陽射しが僅(わず)かに漏れ、畳の上に光の条(すじ)を投げ掛けていた。濡れた畳は響子が乾拭きしたが、暗がりの中でも幽(かす)かに染みらしきものが看て取れた。部屋の中は、もう何年も掃除していないだろう埃(ほこり)の臭いと、苔(こけ)が生(む)したような黴(かび)臭さが鼻を衝いた。
 「今、電器を点けます」
響子がスイッチを入れると、部屋の惨状が良く分かった。窓枠を兼ねた柱は斑(まだら)に染み、その染みは土壁まで侵蝕していた。押入れの襖(ふすま)の表紙にも飛沫(しぶき)のような模様が付いていた。古くなった黄色い畳は、窓際から部屋の中ほどに懸けてバケツの水を零(こぼ)したように茶色く変色していた。音無老人が部屋に一歩踏み入れると、畳の目に入り込んだ細かい硝子の破片がキラキラと光った。
 「これは想像以上だなぁ」
 「済みません、お義父さま。気を付けてはいたんですが、何しろ突然だったものですから」
 「いやぁ。響子さんの所為(せい)じゃないよ」
 「6号室の方はこれ程ではないんですが…」
五代が済まなさそうに後ろ頭を掻(か)いた。音無老人は腕を組んだ。
 「う〜ん。これはそろそろ潮時かもしれないな」
 「潮時とは?」
 「うん。前々から考えとったんだが、一刻館(ここ)もそろそろ修繕が必要だな」
 「修繕なら窓枠と瓦は既に業者に頼んでありますが…」
 「いや、そうじゃないんだよ。最近いろいろと物騒だろ?」
 「えぇ。それはまぁ」
 「この窓だって30年くらい前に替えたものだし、今時の防犯サッシにすれば、木の枝くらいで割れることもなかったろうに…五代くんはどう思う?」
 「まぁ、確かにそうですね」
 「でもお義父さま? それって費用が大変なんじゃ…」
 「かっかっか…。任せろ任せろ。こないだ売却した小松川の休耕地の金がまだ残っとるよ」
 「まぁ、屋根瓦は仕方がないとしても、窓の取り替え費用くらいは十分ある。安心しなさい」
 「まぁ! 本当ですか」
響子の顔はこころなしか嬉しそうだった。住む家が新しくなるのは、女性として嬉しいことらしい。そんな響子の様子を見て、五代も一刻館の修繕計画にやる気が出てきた。
 「じゃぁ、詳しい打合せは管理人室で…」
 「いや、いいよいいよ。君たちに任せるから」
 「でも…」
 「大家としては、これくらいのことはしてやらないとな」
音無老人はふたりににっこり微笑んで見せた。五代と響子は、嬉しくて思わず顔を見合わせてしまった。
  
  
  
  四 窓の眺め
  
 「じゃぁ、後は宜しく頼んだよ」
 「お気を付けて」
 ブーン…。
音無老人はタクシーに乗り、一刻館を後にした。タクシーが時計坂を下って行く。五代と響子は、タクシーの屋根が見えなくなるまで音無老人を見送った。
 「行っちゃいましたね」
 「あぁ。でもあんな対応でよかったのかな?」
音無老人は3号室を見た後、碌(ろく)に2階にも上がらず、管理人室で世間話をして帰ってしまったからだ。管理人室では、最近の体調のこと、郁子の結婚式の日取りが決まったことなどを取り止めもなく話しては大いに笑っていた。五代と響子は、音無老人の元気そうな様子を見て安堵した。
 「まぁ、あのじいさんも好いひとだよな」
 「ほら! あなたがそんな言い方するもんだから、冬樹がうっかり真似しちゃうんですよ」
 「え?」
 「”音無のじいさん”です」
 「あぁ。そのことか」
 「全く困りますよ。あたし、あのときどんだけ恥ずかしかったことか」
 「ははは…。ごめんよ」
 「曲がり形(なり)にも、あなたは教育者なんですから」
 「分かった分かった」
五代は響子の肩を両手で抱くと、機嫌を取るように響子を管理人室へ促した。
 「さぁ、行こう」
 「えぇ」
ふたりが廊下の角を曲がると、管理人室からドタバタと走り回る足音がした。
 「ぴかーっ!」
 「ぴっかぴかー!」
管理人室では、春香と冬樹が追いかけっこをしていた。どうやらふたりは、TVアニメ「ポケットモンスター」のピカチューになりきっているらしい。しかしふたりともピカチューなので、全然ポケモンバトルになっていなかった。
 「おい、お前たち。ロケット団はいないのか?」
五代が助け舟を出した。
 「ぴっかー!」
冬樹が五代に向かって突進して来た。
 「パパ、ロケット団ね」
春香が得意そうに裁断を下した。
 「ぴかーっ!」
 「ぴっかー!」
ふたりは頭を低くして五代に突進した。
 「よぉし。掛かって来い! ピカチューめ」
五代が身構えた。ふたりは勢いよく五代の脚に絡み付いてきた。
 『ぴかー!』
 「おのれ! ピカチュー!」
五代は春香と冬樹を脚にぶら提げた儘、力強く管理人室を歩き回った。
 「あら! 今日のロケット団は強いわね。ピカチュー、負けそうよ」
響子はドアの前で微笑みながらふたりを応援した。
 「ぴっか〜…」
冬樹は低く唸(うな)ると、いきなり五代の脚に噛み付いた。
 「いて! いててて」
五代がバランスを崩して背中から倒れた。三人が一緒になって畳に叩きつけられた。
 「まぁ!」
響子が驚いて三人に走り寄る。響子は、冬樹が泣き出すものと思っていた。
 「冬樹!」
暫く沈黙があった後、春香と冬樹はむくっと起き上がり、諸手(もろて)を挙げて喜んだ。
 『ぴっかー! ぴっかー!』
ふたりは五代の身体がクッションとなって、全然痛くなかったようだ。五代は背中の痛みと、ふたり分の体重を腹で支えた痛みで、暫くは動けなかった。
 「あらあら。ロケット団は降参みたいね」
響子はほっと安堵の溜息を吐いた。ふたりのピカチューは、獲物を仕留めた狩人のように、倒れた五代の周りを何度も廻っていた。
 「ぴかーっ!」
 「ぴっかぴかー!」
 「あ〜、何で俺がこんな目に遭(あ)わなきゃなんないんだよ…」
 「ふふふ…」
五代は漸(ようや)く起き上がった。
窓の外は西日が差し、日没が近いことを知らせていた。
 「あら、洗濯物…」
響子はてきぱきと洗濯物を取り込むと、春香を連れて夕食の買出しに出掛けることにした。
 「ママ、今日のばんごはんはなあに?」
 「さぁ? それは行ってみてからのお楽しみ」
響子は春香の手を繋(つな)ぎ、楽しそうに管理人室を出た。そんな響子たちの様子を五代は優しい目で見送った。響子たちが出て行った後、五代はカーテンを閉めようと窓辺に立った。西の空は黄昏(たそがれ)て雲も見えず、どこまでも遠い向こうに、夏至の赤い太陽が沈もうとしていた。時計坂の街では、家々の灯りがちらほらと点き始め、西武線の黒い線路を浮き上がらせていた。その向こうには、多摩の山々の陰翳(いんえい)がくっきりと見えた。この窓を防犯サッシにを替えたら、この風景も変わってしまうのかな、と五代は思った。
次の日、響子は早速時計坂工務店に電話をした。
 「あの、リフォームをお願いしたいんですけど、見積もりを戴けますか?」
 「あー、リフォームね。で、どんな風にするんですか?」
 「全室の窓を防犯サッシに替えたいんですけど」
 「全室!? お宅、もしかしてアパートか何か?」
 「えぇ。一刻館ですけど」
 「一刻館…。遂に一刻館もリフォームをするんですか!」
 「はい」
 「いやー参ったな、こりゃ…」
 「”参ったな”ってどういうことですか?」
 「いえね、古い建物ってのは規格が合わないんで、手間が掛かるんですよ」
 「”規格”ですか…」
 「はい。窓には国で定められた大きさってのがありましてね。まぁ、戦後くらいならまだいいんですが…。お宅、戦前からでしょ?」
 「えぇ。60年以上は経ってるでしょうか」
 「それなんですよ。それがねぇ…」
 「”それが”って?」
 「だから規格が合わないんで、工事が大規模になるってことです。高くつきますよぉ」
 「いえ、お金のことなら大丈夫です。あてはありますから」
 「あ…大丈夫。いやぁ、大丈夫ならいいんですよ、別にぃ。こちとらこれで食ってるもんですからねぇ。任せて下さいよ」
 「はぁ」
 「じゃ、明日にでもそちらに伺いますんで、見積もりはそのときに」
 「はい。宜しくお願いします」
 チン…。
響子はちょっと不愉快だった。
 《全く何よ、工務店のひと。一刻館(ここ)の見た目が貧相だからって、足元見たりして》
次の日、時計坂工務店の作業員がやってきた。作業員は来るなり窓の採寸を始めた。管理人室の掃き出しから始まり、廊下の窓、トイレ、物干しの窓、そして最後に各部屋の窓の採寸をしていった。
 「ちょいと、管理人さん。今度は何がおっぱじまるんだい?」
雑巾を手にした一の瀬が興味深気に訊いてきた。
 「えぇ。一刻館(ここ)の窓を全部防犯サッシにするんですの」
 「え! 防犯サッシだって? 大家も気が利くじゃないのさ」
一の瀬は嬉しそうだった。
 「この前の台風で窓硝子が割れたでしょう?あれでお義父さまも、このままじゃ不可(いかん)だろう、って仰ってくれたんです」
 「そうかいそうかい」
一の瀬は一度は喜んだものの、急に目が厳しく光った。
 「ところで、この経費は誰が持つんだい?まさか家賃値上げなんてことは…」
 「大丈夫ですわ。お義父さまが全部負担して下さるそうですから」
 「そうかいそうかい。それならあたしゃ好いんだよ」
そこへ作業員が戻って来た。
 「これで窓の採寸は終了しましたので」
響子が心配そうに尋ねた。
 「あの…。リフォームの方、大丈夫でしょうか?」
 「う〜ん。この寸法だとやっぱりちょっと中途半端ですね。いや、大丈夫ですよ。何とかしますから」
 「それで見積もりの方は…」
 「そうですね。後日、営業担当の者を寄越しますので、そのときに言ってもらえますか?」
 「はい。分かりました」
 「それではどうも!」
 「は。何にもお構いしませんで…」
 ブーン…。
時計坂工務店の作業員は、あっと言う間に車で走り去って行った。響子は呆気(あっけ)に取られていた。
 「行っちゃった。随分とせっかちなひとね」
 「でもさぁ、新しくなるってのは好いことじゃないか」
一の瀬は頗(すこぶ)る満足気だった。
  
  
  
  五 リフォーム
  
数日後、リフォーム作業が始まった。
 トントントン…カンカンカン…チュイーン…。
 「何ですかぁ? やけに騒がしいようですが」
四谷が2階から降りてきた。
 「あら、四谷さん。おはようございます」
 「おはようございます、管理人さん。ところで、これは何の作業ですか?」
 「窓のリフォームですわ」
 「ほぉ、窓の…」
 「こないだ工務店の方が採寸にいらしたんですけど、四谷さん、お留守だったみたいですから、申し訳ないと思ったんですが、勝手に採寸していただいたんです」
 「何! 私の部屋に入ったと!」
 「えぇ。何かいけないことでもあったかしら?」
 「管理人さん! あの招き猫には触らなかったでしょうな」
 「招き猫? あぁ、船箪笥の上にあった金色のですか?」
 「はい。あれは我が先祖代々から伝わる縁起物でして、決して他人に触らせるなと婆さまが…」
 「大丈夫ですよ。ただ窓の大きさを測っただけですから」
四谷は金の招き猫を非常に大事にしていた。婆さまがどうのこうのと言っているが、真相は謎だ。
 「なら別にいいんです」 響子は四谷の感覚に随(つ)いていけなかった。やれやれという仕草をすると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、管理人室に戻って行った。
 「ママ!」
冬樹が早速興味津々で作業を眺めていた。
 「これ、なに?」
 「これからね、窓を新しくするのよ」
 「まど?」
 「そう。これが窓よ」
響子はそう言うと、作業中の掃き出しを手を広げて示して見せた。
 「ばうー、ばうばう」
 「ただいま!」
そこへ春香が帰って来た。響子は、冬樹に暮々も作業員に近づかないように言うと、春香を玄関まで出迎えた。春香は喜び勇んでいた。
 「ママ、まどは出来た?」
 「今、その真最中ですよ」
 「わー。見せて見せて」
春香は履物(はきもの)をその辺に投げ出し、一目散に管理人室に向かった。
 「これ! 履物はちゃんと揃(そろ)えなさい」
春香は、響子のことばに耳も貸さず、廊下の角を曲がって行った。
 「わー。すごーい」
響子が管理人室に戻ると、掃き出し窓はほぼ完成していた。窓枠は少し小さめの物を使い、従来の窓枠との間に充填(じゅうてん)材を挟んでいた。窓枠はアルミ製で、硝子は細い鉄線のような物が斜めに互い違いに入っている。しかし視界を阻(はば)むような太さではなかった。
 「そろそろ休憩になすって下さい」
響子は3時のおやつを作業員に振舞った。
 「あの、他はどれくらいかかるんですか?」
 「廊下の窓は大したことないので、すぐ終わります。それから各部屋の窓は、住人の皆さんの都合の好いときを見計らって、一部屋一部屋お伺いすることになりますが」
 「”都合の好いとき”って言ったって、一刻館(うち)の住人はいつも暇ですから、それは問題ないと思います」
 「そうですか? いやぁ、それは助かりますなぁ」
 「こういう商売やってるとね、そういうことで結構工期が延びるんですわ」
 「それはお察ししますわ」
作業員は温(ぬる)くなったお茶を一気に飲み干すと、作業を再開した。管理人室の窓はすぐ終わり、次に廊下の窓に作業は移った。響子は一点の曇りもない硝子戸を閉めて蒼穹(あおぞら)を見上げた。今までの窓硝子は平らでなく少し歪(ゆが)んで見えたが、新しい窓ガラスは外の景色がくっきりと見えた。響子はそれがとても嬉しかった。
 「さてと。お掃除お掃除」
響子は箒を持ち出すと、鼻歌を歌いながら部屋の中の掃除を始めた。ちゃぶ台の上には、さっき作業員が食べずに残したお菓子があった。春香と冬樹は、それを密かに狙(ねら)っていた。響子が上機嫌なことを好いことに、ふたりはそれを実行に移した。
 カサカサ…バリッ…。
響子がちゃぶ台の方に振り向く。見れば、春香と冬樹が煎餅(せんべい)を頬張(ほおば)っていた。
 「これ! ふたりとも! お客さまのお菓子を食べるんじゃありません!」
 「だってー」
 「ママ、これ、おいしい」
冬樹は自分の状況が飲み込めてないらしく、齧(かじ)った煎餅を響子のところまで、にこにこしながら持って来た。
 「んもう。冬樹も駄目でしょ」
響子は冬樹を軽く窘(たしな)めた。すると春香が言った。
 「ママ、ずるーい。春香ばっかりおこって、冬樹にはあんまりおこらなーい」
 「そんなことないわよ。春香はお姉さんでしょ」
 「んもー!」
 「”んもー”だって牛みたい」
響子が哂(わら)った。
 「春香、牛じゃないもん」
 「とにかく、春香はちゃぶ台の物、洗い場に出して。冬樹は面白がって作業の邪魔をしないようにね。そしたらそれ、食べてもいいわよ」
 「分かった? ふたりとも」
 『はーい』
春香は不承不承洗い物を台所に下げた。しかし冬樹は作業のことが気になって仕方がなかった。冬樹は、春香の後を従(つ)けては盛んに春香の気を惹(ひ)こうとした。
 「何よ、冬樹」
 「まど、みたい」
春香は響子の様子を窺(うかが)った。響子は先程から上機嫌で部屋を掃いている。ふたりは、響子が背を向けて掃いていることを確認すると、春香は冬樹を連れてそうっと管理人室を出た。廊下では既に充填材が取り付けられ、窓枠を固定している最中だった。
 チュイーン…。
作業員が窓枠を固定するための螺子(ねじ)穴をドリルで開けていた。春香が得意そうに説明を始めた。
 「ほら、冬樹、見てごらん。あれがドリルっていうのよ」
 「ふぅん」
 「あれを使うとね、穴がすぐ開いちゃうの。ドリルってすごいのよ」
次に作業員は電動ドライバーで螺子を締めだした。
 「おねぇちゃん、あれは?」
 「…あれも…ドリルの一しゅよ」
春香の知ったかぶりもすぐに馬脚(ばきゃく)を現してしまった。
 「おねぇちゃん、すごい! しってる」
 「ま、まぁね」
春香は誉められている立場上、非常にばつが悪かった。作業員は時計を見ると、作業を中断した。
 「それでは、今日の作業はここまでということで」
作業員が管理人室にやってきた。時間は17時を廻っていた。
 「どうも、ご苦労さまでした」
 「それでは、あと2階の廊下と各部屋なんですが、明日工事しても大丈夫ですよね?」
 「えぇ。住人にはちゃんと伝えておきますから」
 「そうですか。では、失礼します」
 「はい。明日もどうぞ宜しくお願いします」
 ブーン…。
響子と子供たちは作業員を玄関まで見送った。響子は管理人室の掃除も済ませ、非常に上機嫌だった。
 「さぁ、ふたりとも。今日の晩ご飯は何が好いかしら?」
 「春香、スパゲッティ!」
 「オム、オム…」
冬樹はオムライスと言いたいようだった。しかしこの前もオムライスだったので、軍配は春香に上がった。
 「じゃぁ、今日はスパゲッティにしましょう」
 「春香。ママが買い物に行っている間に、冬樹のこと、宜しく頼んだわよ」
 「はい♪」
春香はスパゲッティが食べられるということで大満足だ。快い返事をすると、冬樹を連れて管理人室に戻って行った。春香は冬樹とポケモンバトルをしていた。今日は春香がロケット団だ。
 「待て待て待てー。サトシ、これでお前もおしまいだにゃ」
冬樹はサトシとピカチューと一人二役をしていた。
 「いけ! ピカチュー」
 「ぴっか〜」
冬樹が春香に襲い掛かる。春香はそんな冬樹を巧(うま)く躱(かわ)して逃げ回った。
 「まてー、ピカチュー!」
冬樹も必死だった。そんなことをしているうちに響子が買い物から帰って来た。
 「なあに? あなたたち、またピカチューやってたの?」
 「うん。春香がロケット団だったんだよ」
 「窓が新しくなったばかりなんだから、暴れまわって窓硝子を割らないようにね」
 「解ってるよー」
そこへ玄関の方から惣一郎の声が聞こえた。
 「ばうーばうばう」
 「ただいま」
五代が帰って来たのだ。
 『パパ。おかえりなさーい』
 「おかえりなさい、あなた」
五代は一瞬戸惑った。
 「どうしたんだ?皆にこにこして」
 「今日1階の窓のリフォーム済んだんです」
 「パパ。今日はスパゲッティだよ」
 「ほぉ。それは良かった。どれどれ」
五代は流し台の窓を確認した。
 「何か窓がちょっと小さくなったような気がするけど」
 「規格が合わないから、こうなっちゃったんです」
 「ふぅん、そんなもんかな」
 「でもぴったり締まるし、硝子は丈夫そうだし、好いんじゃないかしら?」
 「それもそうだな」
 「じゃぁ、あなた。管理人室の掃き出しも見て下さいな」
 「あぁ」
五代が管理人室に入ると、響子が得意気にカーテンを開けた。
 「ジャーン」
春香が効果音を上げた。
 「へぇ。とても綺麗(きれい)じゃないか」
五代は新しい窓越しに時計坂の街を見下ろした。今まで少し歪みがあった窓硝子だったが、新しい窓硝子は一点の曇りもなく、遠くまで良く見通せた。家々の灯りが見える中、西武線が通るのが見えたが、クラクションの音は聞こえなかった。これが防犯サッシの効能だ。
 「何か静か過ぎて、もの寂しい気もするな」
 「でも、折角お義父さまが仰って下すったのだもの」
 「明日は2階の廊下と、全室の交換をするそうです」
 「あぁ。分かった。済まんな。響子ばかりに面倒かけちゃって」
 「いえ。これも管理人としての仕事ですから」
五代は微笑みながら小さな溜(ため)息を吐(つ)いた。
 「それもそうだな」
響子は嬉々として五代に言った。
 「あなた? もうすぐお夕食の準備ができますよ」
 「やったー! スパゲッティだー」
 「そうか。今日はスパゲティーか」
その日の晩は和やかに暮れていった。
  
  
  
  六 一刻館の素描
  
初夏の時計坂小学校は活気に溢れていた。新緑の中を児童たちがサッカーに興じていた。ボールが相手チームに奪われる度に、わーという喚声(かんせい)が涌(わ)き上がった。トラックの外側では、一輪車に乗っている児童たちもいた。そんなグラウンドの様子を見ながら、春香は、図画工作室で悩んでいた。
 「う〜ん…」
図画工作で絵の提出を求められているのだが、どうしてもイメージが涌かず、絵が描けなかったからだ。テーマは一学期の楽しかったことだった。初め近所の周くんと遊んだことを描こうと思ったが、何かそれも在り来たり過ぎる気がしてならなかった。かといって、五代家は貧乏なので、ゴールデンウィークに旅行なんてしたこともない。冬樹のことも、いつも留守番だの遊び相手だのにこき使われているようで、楽しいとはいえない。
 《そうだ! 四谷さんのことをかこう》
しかし四谷はいつも宴会のときくらいしか現れない。春香は宴会が大好きだったが、子供の分際で宴会というのもどうかと思うし、大体いつも自分が途中で寝てしまうので、これといって楽しいことも思い付かなかった。
 「う〜ん…」
やはり図画工作のテーマは春香にとって難題だった。
 「はーい、皆さーん。時間はあと5分でーす」
図画工作担当の教諭の声がする度に春香は焦った。
 《このままかけなかったら、宿題になっちゃうよ〜。春香、宿題きらいだもん。どうしよう…》
しかし今から描き始めたところで時間内に描き上がることはない。春香は諦(あきら)めて周くんの絵を見に行った。周くんは「たまごっち」の絵を描いていた。聞くところによると、誕生日のプレゼントに貰ったらしい。たまごっちは相当人気が出ており、現在では注文しても入手が困難だった。だからたまごっちを貰ったときの嬉しさを絵に表現しているのだった。春香は周くんの絵を見て、羨(うらや)ましそうに言った。
 「いいなぁ、たまごっち。春香もほしかった」
 「いいだろ。お父さんが探して来てくれたんだぜ。春かちゃんはもってないの?」
 「家はびんぼうだから、そういうのは買ってくれないの」
 「そ、そうか。ごめんな」
 「ううん、いいの。べつに気にしてないし」
周くんは自分のたまごっちをそっとポケットの中に忍ばせた。
 「はーい、時間でーす。描き終わった人は前に提出して下さい」
教室を見渡すと、春香の他にも数人の子供が画用紙を前に頭を抱えていた。春香は絵が描けないのは自分ひとりかと思っていたので、少しだけ安心した。
 春香は今日も周くんと下校した。空は古綿色の雲がどんよりと蔽(おお)っており、今にも雨が降り出しそうだった。
 「ねぇ、春かちゃん。今日、遊びに行ってもいい?」
 「うん、いいよ。でも家、今工事中だよ」
 「え!? 何の工事やってるの?」
 「リフォーム」
 「へぇ。リフォームか。見てみたいな」
 「じゃぁ、今から来る?」
 「うん! 行く行く」
ふたりは時計坂の辻(つじ)を真っ直ぐ一刻館に向かった。
 トントントン…カンカンカン…。
一刻館はリフォームの真っ最中であった。周くんは驚いた。
 「すっげー! まど、ピカピカじゃん」
 「そうなの。まどを取りかえてるのよ」
工事の音は2階からしていた。
 「ねぇ、2階、見に行こ見に行こ」
 「待って。ママにきいてからじゃないと」
 「それもそうだな」
 「ママー」
春香は響子を捜し出した。管理人室には冬樹がひとりで積木遊びをしていた。
 「冬樹、ママは?」
 「しらない」
とにかく響子はその辺にはいないらしい。春香は玄関で待っていた周くんと一緒に2階へ上がった。作業は6号室で行われていた。
 「ママー?」
春香が6号室を覗(のぞ)いた。果たして響子はそこにいた。
 「あら、春香。おかえりなさい」
 「おじゃまします、おばさん」
 「まぁまぁ、周くん。こんにちは」
 「ママ? しゅうくんがリフォーム見たいって言ってるんだけど、見てもいい?」
 「いいわよ。じゃぁ、ママと一緒に見ましょ」
作業員は敷居の金具を外し、鉋(かんな)掛けした後、充填材を打ち付けた。そして充填材の上から窓枠を螺子留めし、窓本体を嵌(は)め込んだ。
 「すごい。こんな風にしてやるんだ」
 「そうよ。1階の方はみんな終わって、あとは4号室と5号室だけなのよ」
 「へぇ。ぼく こんなの初めて見た。すげーなぁ」
 「そんなにすごい?」
 「うん。かっこいい」
そのとき春香の脳裏に何かが閃(ひらめ)いたようだった。春香は一目散に管理人室へ行くと、画用紙と鉛筆を持って現れた。響子は怪訝(けげん)に思った。
 「春香、どうしたの? そんな物、持ち出して」
 「おばさん。春かちゃん、宿題やってるんですよ」
 「宿題?」
 「はい。”一学期の楽しいこと”っていうのがテーマなんですけど」
 「あぁ。それでリフォームのことを描くのね」
春香は初め作業の様子を凝視していたが、暫くして頭を抱えだした。
 「どう? 春かちゃん」
 「もうちょっと。もうちょっとでかけそうなんだけど」
春香にはまだイメージが涌かないようだった。
 「春香? 絵っていうのは、実物どおりに描かなくてもいいのよ。こころに思い付いたことを自由に表現すれば、それでいいの」
春香の顔が俄(にわ)かに明るくなった。
 「分かった、ママ。春香、がんばる」
春香は今までのことが嘘のように画用紙に鉛筆を走らせた。ときどき作業の様子を眺めたり、考え込んだりしていたが、絵は着実に完成に近づいていた。
 「ママ、しゅうくん。下絵できた!」
春香はふたりに素描(デッサン)を得意そうに見せた。後は色を塗るだけだった。
 「いいじゃんか、春かちゃん。その絵、おもしろいよ」
 「よく描けているわ。その調子で頑張りなさい」
春香はふたりから勇気を貰い、彩色に執りかかった。水彩絵の具をパレットに絞り出して並べ、流し台から水を汲(く)んで来た。
 「よぉし、やるぞぉ」
そのとき6号室の作業が終わった。作業員は次々と5号室に移って行った。春香も慌てて道具を纏(まと)めると、5号室に移動した。
 トントントン…カンカンカン…。
着々と作業が進む中、春香は絵の具を混ぜ合わせ、一刻館の古びた感じを出そうと苦戦していた。
日に焼けた畳の色、黴(かび)や埃(ほこり)に塗(まみ)れた土壁の色、黒光りするような柱の色、そしてそれらとは対照的な新しい窓の色。春香は試行錯誤を繰り返しながら、複雑な色合いを出すのに苦労していた。
 そして夕方。作業員は全ての作業を完了して帰って行った。後は春香が独力で絵を仕上げるしかなかった。響子は夕食の準備をしていた。冬樹はTVを見ていた。春香はちゃぶ台の上に画用紙を広げ、黙々と彩色作業に励んでいた。響子が味噌汁の味見をする。好い味に思わず微笑んでいるときだった。
 「できたー!」
春香の声に響子と冬樹が反応した。
 「どれどれ?」
 「まぁ、好く描けたじゃない」
 「えっへへー」
春香は誉められて少し照れくさかった。
 「ばうー、ばうばう」
 「ただいまー」
そこへ五代が帰って来た。響子がいつものように五代を出迎えた。
 「くすっ」
響子が哂(わら)った。五代は不思議そうに尋ねた。
 「響子、どうかしたのか?」
 「えぇ。春香が面白い絵を描いたんですよ」
 「絵?」
 「そう」
五代は訳が分からないまま、響子の後を従いて行った。管理人室は夕食の好い匂いが漂っていた。
 「パパ、おかえりなさーい」
春香が喜び勇んで五代に抱きついた。
 「こらこら。どうしたんだ?一体」  「パパ、これ見て」
春香は五代に絵を見せた。
 「へぇ。好く描けてるじゃないか」
そこへ一の瀬と四谷が入って来た。
 「さぁ、五代くんも帰って来たことだし、ぱーっと行こうかね、ぱーっとさぁ」
 「五代くん、待ち侘(わ)びておりましたですよ〜」
 「あんたらなぁ、うちはまだ食事も済んでないんですから!」
 「まぁまぁ、そう言わずにさぁ」
すると春香が一の瀬に自分が描いた絵を見せた。
 「おばさん!見て」
一の瀬が一升瓶を置いて絵を見る。
 「何だい? こりゃ」
 「これ、春香がかいたの」
 「へぇ、春香ちゃんが。面白いじゃないのさ」
四谷が割り込んだ。
 「どれどれ私も拝見。やや! 私もおりますなぁ」
一の瀬と四谷が見た絵には、窓の取り付け作業をしている五代と響子、そして部材や道具箱を持って補佐する一の瀬と四谷の姿があった。その横では冬樹と周くんが笑って作業を見ている。
 「一コク館は、みんなで直すの」
春香は得意気に言った。四谷が空かさず叫んだ。
 「では春香ちゃんの絵の完成を祝いまして…」
 『かんぱーい』
 「わははは…」
またもや住人のペースで無理やり宴会が始まってしまった。一刻館の外は劇しい雨が降っていた。また嵐が近づいているようだった。(完)