冬のいぶき


作 高良福三


序 故郷

今年の雪は去年より深かった。古綿色の雲が垂れ込めた街には、純白の雪が細石(さざれいし)のように降り注いでいた。雲ひとつない東京の蒼穹(あおぞら)に比べて、新潟の空は昼間でも暗かった。聳(そび)える建物や道路以外一面真っ白で、逆に地面の方が明るい印象を受けた。
 「ようこそ 越後路へ」
そんな大きな看板が掲げられた新潟駅に、五代一家は立っていた。
 プルルル…。
新幹線「あさひ」の発着を知らせる場内放送が聞こえる。駅前は、黙々と歩くひとびとで溢れ返っていた。
 シャー、シャー…。
ロータリーを走る車が融雪水を撥(は)ねる音が耳に付いた。東京の人間には雑音でも、五代にとっては故郷を思わせる懐かしい音なのだ。
 「凄い!一面真っ白!」
響子が目を瞠(みは)った。
 「ママ。すんごくつめたいよ♪」
春香も雪が珍しいようだった。
 「こらこら。春香、そんなの触っちゃ汚いよ。こっちじゃ、雪は迷惑なだけなんだから」
五代が弱った顔でふたりを宥(なだ)めた。
タクシープールには、厚く雪を積もらせた黒塗りのセダンが客を待っていた。明るい白に暗い黒。街はモノトーンに包まれていた。駅前の歩道は除雪してあるものの、薄らと雪が降り積もっていた。道行くひとびとの足跡が無数に付けられている。その中を五代は、狃(な)れた足取りですたすたとタクシー乗り場に向かった。
 「パパ。まってー」
春香は雪に狃れていないようだった。滑りそうになりながらも、自分の荷物をリュックに背負って、たどたどしく懸命に歩いていた。響子も歩くのが辛そうだった。身重(みおも)なのだ。
 「あなた。もうちょっとゆっくり歩いて下さいな」
 「あ、ごめんごめん」
五代は頭を掻(か)きながら歩調を緩めた。タクシー乗り場は、帰省客で意外と混んでいた。
 「普段はもっと空(す)いてるんだけどね」
五代がふたりを労(ねぎら)うように言い訳した。やっと五代たちの順番が廻ってきた。五代は運転手にトランクを開けるように指示すると、サムソナイトと手提(さ)げ鞄(かばん)を積み込んだ。
 「響子は後でいいから…」
五代は響子を待たせ、先に奥に乗り込んだ。
 「ほら、春香。こっちお出で」
 「はい♪」
そして五代は春香を中央に座らせてから、響子にタクシーに乗るように指示した。
 「よっこいしょ」
響子は狃れない雪に注意しながら、やっとのことでタクシーに乗り込んだ。
 「運転手さん。出して下さい」
 「へぁ(はい)」
 ブーン…。
タクシーの窓ガラスは白く曇っていた。春香がそこに指でドラえもんの絵を描く。
 「駄目よ、春香。そんなことしちゃ」
 「だって…」
ドラえもんの向こうから街の家々が走馬灯のように見え隠れしていた。
 「定食五代」
その前でタクシーは止まった。
 「お世話さま」
 「どんもありーーがとございました」
 ブーン…。
タクシーは細雪(ささめゆき)の中に消えて行った。
 「大丈夫?響子」
 「あ!」
響子が滑りそうになる。市街地の道は、除雪もあまりされておらず、雪が隅の方に寄せてあるだけだった。雪に狃れない人間は誰でも戸惑うものだ。
 カラン、カラン…。
 「いらっしゃいま…。あら、裕作」
 「おぉ、来たか」
 「お帰りー。裕作くん」
定食五代は今日も営業中だった。
 「何だよ。いつまで店やってんだ?もうすぐ大晦日(おおみそか)だってのに…」
 「えぇれねっか。お客さんも来ることらし…」
 「ばあちゃん!」
 「おばあちゃん!ご無沙汰(ぶさた)してます」
響子は嬉しそうに頭を下げた。
 「響子さん、無理しちゃいけねぞ。身重なんだすけな」
 「いえ。そんな」
すると厨房(ちゅうぼう)から五代の母が出て来た。
 「まぁまぁまぁ。どうも、ようこそいらっしゃいました」
 「さ、早く中へ…」
 「ありがとうございます」
 「そうだよ。早く休まなきゃ」
 「ほら、春香?おばあちゃんにご挨拶(あいさつ)よ」
響子は春香に促した。
 「どっちがどっちのおばあちゃん?」
 「こっちが春香のおばあちゃん。それでこっちが、新潟のおばあちゃんよ」
 「ふーん…」
 「春香ちゃん、久し振りらな」
 「おばあちゃん、こんにちは♪」
 『ハイ、こんにちは』
五代の母は二年振りに会う春香の成長を喜んだ。去年は響子の実家で正月を迎えたからだ。
 「ほんね春香ちゃん、大きぇなったがぁ」
 「もう六つですものねー」
響子が春香と顔を見合わせる。
 「もうすぐ 7さいだよ」
 「そういや、響子さん。ランドセル、届いたが?」
 「あ、お義母さま。ありがとうございました」
 「いやいや。離れてるっけねぇ。それくらいしか、してやれなくて…」
 「いいえ。お気持ちだけでも嬉しいですのに。ホントに済みません」
 「いいのよぉ。でもよく来てくれたーね」
 「響子さん、そんげ無理して来ねくてもいかーたんだがぁ」
五代の母は、響子の身体のことを心配しているようだ。
 「いいらねっか。別に病気らねぇんらし」
 「な?響子さん」
ゆかりが響子をあたたかく見上げる。
 「えぇ。春香のときも普通にしてましたし、あたし、全然気にしてませんから」
 「それでこそ、うちの響子さんら」
居間からは、五代がせっつくように響子を促す。
 「響子。挨拶なんてその辺にして、早く炬燵(こたつ)に当たれよ。身体冷やすぞ」
 「ありがとう、あなた」
 「ほら、春香?いらっしゃい」
 「はい♪」
 「まぁ、春香ちゃん。お行儀えぇがぁ」
 「こういうことは、ちゃんと躾(しつけ)ないとね」
五代が居間から顔を出す。
 「へぁへぁ。教育学部は言うことが違うがぁ。東京に行(え)かせた甲斐(かい)があったっていうもんだがぁ」
 「へぇへぇ」
五代は響子の手を牽(ひ)いて、田舎の高い上り框(がまち)を上がらせた。



一 盟友

 「よいしょっと♪」
響子に続いて、春香も両手を付いて上がる。
 「ほら、ふたりとも。炬燵(こたつ)に…」
 「えぇ」
ふたりが炬燵に入った。
 「あれ?」
春香が怪訝(けげん)な顔をする。
 「どうしたの?春香」
 「このこたつ あながあいてる」
春香は中を覗(のぞ)き込む。
 「わー!ふかーい!」
 「春香。これは『掘り炬燵』っていうんだよ」
 「ほりごたつ?」
 「そう」
 「あ!なにか、なかにくろくてあかいのがある!」
 「それは煉炭(れんたん)だよ」
 「れんたん?」
響子がくすっと笑う。春香には、何もかも珍しいようだ。
 「春香。あまり首突っ込んでると死んじゃうぞ。気を付けろ」
 「え?しんじゃうの?」
 「そうよ。だから早く出なさいね」
 「はーい」
五代は一酸化炭素中毒のことを心配しているようだ。東京では珍しくなったが、煉炭の堀り炬燵は、こちらでは当たり前だった。
 「ほれ、響子さん。これ食いなせ」
 「ありがとうございます」
ゆかりが黄色い切り餅を差し出した。
 「あら?これ、何ですの?」
 「こりゃぁな、佐渡の『蜜柑(みかん)餅』っていうんら」
 「蜜柑餅って、あの蜜柑ですか?」
 「そうら」
 「佐渡島って、蜜柑が採れるんですか?」
 「あぁ。あんま有名じゃねぇろも…」
 「へぇ…。珍しいんですね」
 「それな、こねさ(この間)来たお客さんが、態々(わざわざ)持って来てくれたんら」
響子が珍しそうに一口頬張(ほおば)る。
 「あら!美味しいわ」
 「な!」
ゆかりが得心の笑みを浮かべる。
 「ほら。春香も食べてみなさい」
 「はい♪」
五代が餅を振舞う。
 「おいしい!みかんのにおいがするー♪」
 「それはね、蜜柑の皮を蒸して搗(つ)いてあるんだよ」
 「へぇ…」
五代はお国自慢ができて、少し誇らしげだった。
 「ほれ、響子さん。これも食いなせ」
すると表から五代の母の声がする。
 「ばあちゃん。もう直ぐ夕食だすけ、あんま勧めないで下さいな」
 「あぁ。分かった分かった」
 「全く恐ぇ嫁ら」
五代は微笑みながらネクタイを緩めた。
 「おふくろ。今日の飯は何?」
 「今日はな、裕作たちが帰って来ると思ってー、のっぺ汁作ったんだがぁ」
 「のっぺ汁?そりゃ旨そうだな」
 「のっぺ汁?それ、あの郷土料理の?」
響子は興味津々だ。
 「そうら」
 「あたし、のっぺ汁って初めてなんです。楽しみだわ」
 「そうけ?そんなに喜んでもらえると、作る方も嬉しいわー」
五代の母は至極嬉しそうだった。厨房から、醤油の甘辛い好い匂いが漂ってきた。
 グツグツ…。
 「ほい。お待ちどお」
五代の父が厨房から出て来た。使い込んだ黒い古鍋の中には、野菜と蒟蒻(こんにゃく)が麗々(つやつや)として、本当に旨そうだった。
 「まぁ!これが『のっぺ汁』?」
 「あぁ。子供の頃はよく食ったもんだよ」
 「へぇ。何かけんちん汁に似てるわね」
 「まぁ、そんなもんかな」
そこへ厨房から五代の母と正一も上がって来た。
 「あれ?今日、ねえちゃんはいないの?」
 「あぁ。あん子は正月の準備で忙しいっけ、家で正月の仕度してるわさ」
 「ねえちゃんも来ればよかったのに…」
 「まぁ、お正月にはこちらにお邪魔になりますし、今日は僕だけで勘弁して下さい」
正一が照れ臭そうに頭を掻いた。
 「じゃぁ、皆で戴きましょうか?」
 『いただきまーす♪』
五代一家はのっぺ汁に舌鼓を打った。
食後、五代の父は、五代たちと酒を酌み交わした。五代の母が洗い物を下げる。
 「あ、お義母さま。あたしも手伝います」
 「あら。来てくれた早々、わーりぃね」
 「いえ。それに…」
 「動いてた方が、産むの楽ですし…」
五代の母はくすっと笑った。
 「それもそらね」
 「うふ」
 「うふふふ…」
ふたりは互いに笑った。これが女の盟友の證(あかし)であるかのようだ。男には到底理解の及ばない世界だ。
 一方、居間の方では、五代の父が頗(すこぶ)る嬉しそうだった。
 「いやー。やっぱり息子と酌み交わす酒は最高らねぁー」
 「そうか?」
 「そりゃ、そうえがんだ」
 「でも親父。正一さんとも、いつも飲んでるんだろ?」
 「まぁな。でもこいつはあんま飲まんでねぁー、ちーと面白くねぁ」
 「お義父さん、済みません」 
 「ふーん、そうなんだ」
五代は、学生時代から散々一刻館で鍛えられた所為(せい)もあって、酒は相当強いようだ。勿論一刻館の連中には敵(かな)わないが。
 「わははは…」
五代の父は機嫌よく哄笑(こうしょう)した。
厨房では、響子と五代の母が洗い物の真っ最中だ。
 「響子さん、何ヶ月?」
 「8ヶ月になります」
 「あら!じゃぁ、もう直ぐね」
 「えぇ」
 「実家とかには帰らねんだ?」
 「それなんですけど、最近、実家の両親が煩(うるさ)くて…」
 「なして?」
 「『家に帰れ帰れ』って」
 「そいが(そうなの)?」
 「えぇ。母はともかく、特に父なんか…」
 「まぁ、確かに8ヶ月にしては、お腹、大きぇんじゃねっか?」
 「そうでしょうか?」
 「そうよ」
 「でも春香もいるし、実家に帰ったら、五代さんが生活に困るんじゃないかと…」
 「春香ちゃんがいるっけ、実家に帰るんだがぁ?」
 「あなたもいろいろ、家事とか大変らこて(でしょ)?」
 「はぁ。最近はやっぱり、少し動きづらいなぁとは思うんですけど…」
確かに響子の腹は少し大きかった。8ヶ月ともなれば、腹の中に土嚢(どのう)を仕込んでいるようなものだ。それに最近は、歩く度に脚の筋が突っ張るような気がして、それも気になっていた。
 「帰ってあげんなさいよ」
 「でも五代さんが…」
響子は、五代の生活を気にしているようだった。五代の母は鼻で嘲(わら)った。
 「あん子はいいがぁ。何しるが、死にゃぁせんて」
 「あははは…」
母親ならではの酷い口振りだ。響子は、五代に聞かれてはいないかと、ハラハラしながら居間の方を見やった。
 『わははは…』
居間からは五代たちが談笑する声が聞こえる。どうやらこちらの話は聞こえていないようだ。
 「それもそうですね」
響子はにこっと笑った。
 「じゃぁ、歳が明けたら、春香を連れて実家に帰っちゃおうかしら?」
 「それがえぇって」
五代の母は積極的に響子の里帰りを勧めた。これも自分の体験から言えるのだろう。出産に対する女性の気持ちは、誰でも一緒なのだ。五代の母は響子の味方だった。その日の夜は、何事もなく更(ふ)けていった。



二 兆候(おしるし)

次の日。五代と春香は少しだけ朝寝坊だった。正一は昨日のうちに自宅へ帰った。居間ではゆかりと五代の父が茶を飲み、厨房では響子と五代の母が朝ご飯の仕度をしていた。
 トントン…。
俎板(まないた)の音が小気味よい。正に日本の朝ご飯という風情であった。
 「それにしても、あん子は何時(えつ)まで寝とるんらろねぇ」
五代の母は少々不機嫌だった。
 「あなたー、春香ー!もう起きて下さーい!」
響子が階下(した)から叫ぶ。しかし返事はない。
 んごー…。
二階に上がると、五代は珍しく大鼾(いびき)をかいて寝ていた。昨日の酒がまだ残っているようで、部屋は少し酒臭かった。
 「あなた!あなた!」
響子が五代の体を揺さぶる。
 「…うーん」
五代が寝返りを打った。
 「ほら、あなた!起きて下さい!もう朝ご飯が出来てますよ!」
響子は再び五代の体を揺すぶった。
 「…あ、響子?もう朝か…」
五代は寝惚け眼(まなこ)で漸(ようや)く起き上がった。
 「いってー」
五代は頭を押さえた。二日酔いだ。
 「響子。悪いけど、水、貰えないかな」
 「水が欲しかったら、階下に降りて下さいな」
 「もうご飯、出来てますよ」
 「ん、わりぃ。分かった」
五代は欠伸(あくび)をしながら、トントンと階段を降りた。
 「裕作。えぇ加減にせんね。寝ぼこさらの!」
五代の母はご立腹だ。五代はそんな母親のことばも余所(よそ)に、厨房で水を飲んでいた。
 「んー。頭痛て」
 「お前。昨夜(ゆうべな)飲みすぎたんね」
五代の母の追及は厳しい。
 「そんげなことは、もうえぇらねっか」
五代の父が助け舟に入る。
 「全くこん子は…」
五代の母はぶつぶつ言いながら、茶碗に飯を盛っていた。
今日の朝ご飯は、秋鯵(あきあじ)の切り身に菠薐草(ほうれんそう)のお浸しだ。
 「しょっぱーい」
春香が眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。田舎の味なのだ。
 「春香、そんなこと言わないで。ありがたく戴きなさい」
響子が春香を窘(たしな)めた。ゆかりが笑った。
 「春香ちゃんには、塩がちーとがっと(きつい)らな」
響子が慌てた。
 「いえ。別にそんな訳では…」
春香は、さも嫌そうに鮭(さけ)の切り身を箸(はし)で持ち上げた。
 「春香!食べ物に対して、そんなこと、するもんじゃありません!」
 「お義母さま。本当に済みません」
 「えぇってえぇって。田舎(ぜえご)の味は濃えっけ…」
響子は申し訳なくて、今にも逃げ出したい気分だった。その様子を見て五代が言った。
 「春香。無理しなくていいよ」
 「その代わり、ちゃんとご飯は食べような」
 「はい♪」
 「でもあなた…」
 「いいんだよ。子供の頃から薄味に慣らせた方が、後々味に敏感になるんだから…」
 「そうなんですか?」
響子は、五代の母に申し訳ない気持ちで一杯だった。
 「そうだよ。小さい頃から濃い味に狃らすと、大人になってから微妙な味付けが分からなくなるそうだ」
 「家はこんげ濃かったろも、裕作は大丈夫らったんかね?」
響子は必死だった。
 「え、えぇ。五代さんは大丈夫だと思いますよ」
 「そりゃぁ、響子の料理は旨いもんな」
五代が惚気(のろけ)る。
 「んもう!あなた」
響子は恥ずかしくて俯いてしまった。
 「まぁ。仲がえぇことが一番(いっち)らて」
ゆかりが満足そうに頷(うなづ)いた。
 「そうねぇ。こんが歳の暮れには、ちゃんと帰ぇって来てくれるし、こんげ遠いと、いっけー(なかなか)会えねぇし。助かるわー」
五代の母は、春香のことを全然気にしていないようだ。響子は取り敢えず安堵(あんど)した。
食事が終わると、五代の父が裕作を呼んだ。
 「何だよ。親父」
 「裕作。わりぃがなぁ、屋根の雪(よき)下ろしてくれねか?」
 「雪下ろしー?バイト代、出るんだろうな」
 「何言っとんら。昨日(きんね)、只飯(ただめし)食ったくせに」
 「へぇへぇ。分かりました、分かりました」
五代は、不承不承雪下ろしを始めた。
 「裕作ー。気ぃ付けてよー。滑んじゃないよー」
二階から五代の母の声がする。
 「あー。大丈夫だよー」
五代は、高校生の頃から雪下ろしをしていたが、この数年、やったことがなかった。記憶では、雪は昔の方が深かった気がする。これも地球温暖化の影響なのだろうか?
 ほいさ、ほいさ…。
五代はリズミカルに雪を屋根から落とす。雪下ろしは、落とし方にもコツがあるのだ。やっとのことで雪下ろしが終わると、五代の額には薄らと汗を滲(にじ)ませていた。
 「あなた。お疲れ様です」
響子が冷たい水を差し出した。
 「お!ありがとう。気が利(き)いてるな」
 「そりゃ、あなたが働いてらっしゃるんだもの。これくらいのことは気が付くわよ」
 「いや、ごめんごめん。そういう意味じゃないんだ」
五代はコップの水を一気に飲み干した。心地好い清涼感と同時に、ツーンとする独特の痛みが眉間(みけん)に響いた。
 「旨い!やっぱ東京の水とは違うな」
 「そうね」
 「だって信濃川の雪解け水だもんな」
 「じゃぁ、あなた。もうお昼が出来てますよ」
 「ん。着替えたら直ぐ行くよ」
 「はい」
五代は長靴と防寒着を脱いで、部屋着に着替えた。
食事も終わり、響子たちはいつもと変わらず昼ご飯の後片付けをしていた。響子が洗い物をお盆に載せて厨房に運ぼうとした、そのときだった。
 「う!痛…」
下腹部に何か鈍い痛みがずーんと響いた。妊娠しているため、生理痛とは考えられない。
 「あら?響子さん。どうしたんかね」
五代の母が響子の異変に気が付いた。
 「いえ。何でもありません」
響子は五代の母に心配掛けまいとして無理をした。洗い物も終わり、今日は年末休業ということで、六人がテレビを見ながら家族団欒(だんらん)しているときだった。
 「痛…」
またあの鈍い痛みだ。響子の異変にゆかりが敏感に反応した。
 「響子さん。それ、陣痛らねっか?」
 「え?陣痛?」
 「あぁ。最初は大ぇしたことねぇがん(もの)らし、おめさん、もう直ぐ9ヶ月らろ?」
 「えぇ。確かにそうですけど、まだ早いんじゃ…」
 「いーや。こればっかは分からねもんら」
 「そうよ、響子さん。東京に帰ぇったら、直ぐ実家に帰りなせ。裕作なんて、放っとけばいいっけ」
 「何だよ。他人(ひと)事だと思って」
 「だってお前、結婚前は独り暮らししてたんだすけ、こんくらい我慢しな」
 「分かったよ」
五代は不機嫌そうに頬杖(ほおづえ)を付いた。
 「何もお前、そんげ剥(むく)れんでもえぇがぁ」
 「剥れてないったら!」
五代の母は、恥ずかしそうに笑いながら響子に謝った。
 「響子さん。済みませんねー。こん子、ほんね大人しく(素直)なくて…」
 「いえ。そんなことないですわ」
響子は胸の前で手を振って見せた。
 「ママ。おじいちゃんのところにいくの?」
 「そうよ。春香も一緒にね」
 「パパは?」
 「パパはお仕事があるから、一刻館(おうち)にいるのよ」
 「ひとりで?」
 「まぁ、そういうことになるわね」
 「パパ、かわいそう…」
五代は、心配する春香を膝(ひざ)に抱っこすると、優しく諭した。
 「春香?ママは今、大変なときなんだよ。春香もママのお手伝い、ちゃんとやってくれるかな?」
五代の優しい口振りに、春香の不安が少し解消したようだった。
 「はい パパ。はるか がんばる♪」
春香はガッツポーズをして見せた。
 「あんれ、春香ちゃん。頼もしいらねっかー」
ゆかりが冗談で春香をからかった。
 「はるか、がんばるもん」
春香は頑固だった。これも母親譲りの性格か?
 「じゃぁ、もう決まりらな」
五代の父が厨房からビールを持って現れた。
 「あら、お父さん。もう飲むんかね?」
五代の母は不服そうだ。
 「いや。響子さんの陣痛も始まったし、裕作の独り暮らしも決まったし。まぁ、前祝いってことで…」
 「はん!何のお祝いらかね」
 「まぁまぁ、えぇらねっか」
ゆかりの許可が下りたところで、五代の父は景気よくビールの栓を抜いた。



三 戌(いぬ)の日

 「それじゃぁ、響子さんの安産を祈って…」
 『かんぱーい』
五代家のひとびとは皆、賑(にぎ)やかなことが大好きだ。初めはぶつくさ言っていた五代の母も、アルコールが入ってきて徐々に機嫌がよくなってきた。
 「響子さん。大きぇなお腹らろも、双子じゃねっか?」
 「そうかしら?」
 「裕作。お前、双子を育てんだけの甲斐性あるんけ?」
五代の父が意地悪そうに五代を見上げる。
 「何だよ、藪(やぶ)から棒に。それくらい俺だって…」
五代が響子を一瞥(いちべつ)する。響子も不安そうに五代を見ている。五代は段々自信がなくなってきた。
 「まぁ、こればっかりは、生まれてこないと分からないもんだしな」
 「あはあは…」
 「こいつぅ。誤魔化(ごまか)しおって!」
 「誤魔化してなんかねぇよ!」
 「あぐらしぇ(うるさい)。まっと(もっと)飲め」
内孫がまた増えるということで、五代の父も相当期待を大きくしているようだった。響子は大きな腹を擦りながら、ジュースを飲んでいた。
 「響子さん」
 「はい」
 「ちーと俺の部屋まで来てくんねかな?」
ゆかりが思い出したように響子を呼び付けた。
 「はい。伺います」
 「それじゃ…」
ゆかりは二階の自分の部屋に向かった。響子はその後を従(つ)いて行った。部屋に入ると、ゆかりは押入れの中をごそごそと漁(あさ)り出し、柳行李(ごうり)の中から晒(さらし)のような物を取り出した。
 「おめさん、腹帯はしてるんらかね?」
 「えぇ。春香を産むときに、実家の母が水天宮で戌の日に買ってくれた物を使ってますが…」
 「そうらな。おめさん、今回で二度目らもんな」
ゆかりは少し寂しそうに溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
 「それが、どうかなさったんですか?」
 「いやな。こないだ押入れの中から、この腹帯を見付けてな…」
ゆかりは少し疲れた晒を取り出して見せた。
 「これ、裕作が生まれるときに、俺が嫁に買(こ)うてやった物(がん)なんら」
 「あら!そんなに古い物なんですか?」
ゆかりが手にした岩田帯は、丁寧に保存してあったようで、とても30年以上前のものとは思えなかった。
 「春香ちゃんのときは、おめさんに遣れなかったろも、今回は丁度(ちょうど)好ぇときにこっちゃに来てくれたし…」
 「俺、おめさんに遣ろうと思うてな」
 「でも、だっちもしね(どう仕様もない)な…」
 「おばあちゃん、そんな…」
 「あたし、それ使わせていただきますわ」
 「ホントか?響子さん」
 「えぇ。だっておばあちゃんと五代さんの思い出の品ですもの」
響子はゆかりの岩田帯を鄭重(ていちょう)に戴いた。ゆかりは至極嬉しそうだった。
 「響子。何やってんのー?」
五代が階下から上がってくる音がした。ゆかりは部屋を出て素早く後ろ手に障子を閉めると、厳しい表情で五代を追っ払った。
 「おめぇは向こさ行ってれ!」
 「何だよ。俺は響子に用事があって来たのに…」
 「えぇから行ってれ!」
 「ったく、もう…」
五代は仕方なく階下に降りて行った。ゆかりは穏やかな顔でゆっくりと部屋に戻ると、手を付いて頭を下げた。
 「これは俺のまごころが籠(こ)もっとる腹帯ら。大事に使ってくんなせ」
 「おばあちゃん。お顔を上げて下さいな」
 「いやいや。おめさんにはほんね感謝しとるんら。最期まで裕作と添い遂げてやってくんなせ」
響子は胸が熱くなった。ゆかりの方に座り直すと、岩田帯を前に置いて深々と頭を下げた。
 「はい。ありがとうございます」
その声は少しくぐもっているようだった。ふたりが顔を上げると、響子の頬には二条(すじ)の涙が伝っていた。
 「響子さん。ありーがと」
ゆかりは満足そうに何度も何度も頷いた。響子もとても嬉しかった。
 「じゃぁ、おばあちゃん。早速これ、巻かせていただきます」
 「おめさん、そんげ無理せんれも…」
 「いいえ。あたし、着けたいんです」
響子は満面の笑みを見せると、トイレに向かった。響子の後ろ姿にゆかりは丁寧に頭を下げた。
 「ほんねありーーがと」
岩田帯は妊婦の必需品だ。腹に4kg以上の羊水を抱えているため、下腹が重たくて仕様がない。これを支えるのが所謂(いわゆる)岩田帯といわれる腹帯だ。犬は多産で安産なため、縁起を担いで戌の日に岩田帯を買って締めると好いとされている。現在では、マタニティサポーターという便利な物もあるが、響子は日本の伝統を守りたいという気持ちから、春香を妊娠したときに、律子にせがんで岩田帯を買ってもらった経緯があった。しかし今手にしているのは、五代が生まれるときに締められていた岩田帯だ。響子の感慨は深い。30年以上も前のものなので、あちこちが傷んではいるが、気はこころ、響子は嬉しくて堪らなかった。響子は、自分の岩田帯の上から五代の岩田帯を丁寧に巻いていった。そして岩田帯を巻き終えると、響子はそれを手で丹念に擦った。恰(あたか)も我が子を慈しむかのように。
 「響子ー、響子ー」
五代が響子を呼ぶ声がする。そういえば、先程も響子を呼びにゆかりの部屋に来たのだった。
 「はい。何ですか?あなた」
響子はトイレから出ると、そそくさと髪を調える振りをした。
 「いや。これから餅搗きをするんだけど、響子も見るかと思って…」
 「え?臼(うす)と杵(きね)があるんですか?この家」
 「いや。そんな物はないよ。電動の餅搗き機なんだけど、ちょっと珍しいかなぁと思ってさ」
 「あら、是非見たいわ」
 「春香も、もうお待ちかねだよ」
 「ごめんなさいね。直ぐ行きます」
五代と響子は厨房に向かった。厨房からは、糯(もち)米を蒸らす好い匂いが漂っていた。
 「あれ、裕作。響子さん、見付かったかね?」
 「うん。じゃ、始めてよ」
 「あいよ」
五代の父は、蒸籠(せいろ)で蒸した糯米を手際よく機械に入れた。そして餅搗き機の蓋(ふた)を閉じると、スイッチを入れた。
 ウィーン、トントン、ウィーン…。
 「これだけ?」
春香は折角待っていたのに拍子抜けだ。少々不満そうだった。
 「春香。ホントはね、臼と杵という物でお餅を搗くんだよ」
五代が画用紙に絵を描いて、身振りを交えて説明した。
 「それ、はるかもやりたい」
 「いやいや。杵っていうのは、すんごく重たいんだ。それに手が滑ってくるくる回るから、ちゃんとした位置でお餅を搗くのは難しいんだよ」
 「ふーん」
暫くして餅が搗き上がった。
 「じゃぁ、丸餅を作りましょうね。春香ちゃんも手伝ってくれるが?」
 「はい!てつだいます♪」
五代の母と響子と春香は、搗き上がったばかりの餅を丸め始めた。
 「あちあち」
春香が餅を持て余す。
 「春香。無理しなくてもいいわよ」
響子の優しい声に春香は意地を張った。
 「はるか、やる!」
五代の母が困ったように春香を宥(なだ)めた。
 「まぁまぁ、春香ちゃん。無理しるんでねぁ」
五代の母は優しかった。こうして五代家の正月の準備は、着々と進んで行った。



四 達磨(だるま)

正月も恙(つつが)無く終わり、五代一家は帰宅の途に着いた。定食五代は既に営業を始めていたので、見送りに来たのはゆかりだけだった。新幹線の発車のベルが鳴るまで、ゆかりは同じことを繰り返し繰り返し言っていた。
 「じゃぁ、響子さんは早々に実家に帰ぇって、こいつのことは心配せんでもいいっけ…」
 「はい。そうします」
 「おばあちゃん、本当にお世話になりました。また東京の方へもいらして下さいね」
 「住人(みなさん)も歓迎すると思いますので…」
 「そうらな。またこんからもちょくちょく遊びに行かせてもらうかな」
 「ばあちゃん、そんなこと言って、また春香に酒とか飲ませるなよ」
 「心配要らね。春香ちゃんも、春からは立派な小学生ら。おめぇと違って、よっぽ(よほど)しっかりしとるわ」
 「何だと!」
 「じゃぁ、響子さん。裕作共々宜しくお願ぇするら」
響子は俄(にわ)かにどう答えていいか分からなかったが、取り敢えず笑顔を作って見せた。
 「えぇ、おばあちゃん。あたしに任せて下さいね」
 「ほうかほうか。いや、安心した」
 「じゃぁ、裕作。響子さんのいねぇ間(あいさ)は、ちゃんと飯、食うんらぞ」
 「分かったって。もう年寄りは煩いんだから…」
 「何らと!」
 プルルル…。
 「ほら、響子。新幹線が出ちゃうよ」
 「急ぎましょう。ね?春香も」
 「にいがたのおばあちゃん、ありがとう。さようなら♪」
 「ハイ、さようなら」
 プシュー…。
新幹線「あさひ」は満杯の帰省客を乗せて出発した。これから東京までの2時間が地獄だ。仕方なくデッキに立つ三人。長岡に着く頃には、春香はもう退屈し始めた。
 「パパ。しんかんせんのなか たんけんしてきていい?」
 「あぁ、いいよ。でも電車から降りちゃ駄目だぞ」
 「わかってる」
 「じゃぁ、気を付けてね」
 「はーい♪」
それから何分くらい経っただろうか?高崎に着いたときに、漸く春香が帰って来た。
 「どうだった?」
 「すんごくおもしろかった」
 「よかったわね、春香」
 「パパ。”だるまべんとう”ってなに?」
 「何だ、お前。車内販売も見て来たのか」
 「だるま弁当っていうのはね、高崎の名物で、達磨さんの形の容器の中に、蒟蒻とか鳥とか沢山入ってるんだよ」
 「はるか たべたい♪」
 「春香、さっきおばあちゃんの所で朝ご飯食べたばっかでしょ?」
 「あなた食べられるの?」
 「たべられるもーん」
 「あなた。どうします?」
 「まぁ、名物料理だし、いいんじゃないか?」
 「そう?」
 「残したら俺が食べるよ」
 「じゃ、春香。このお金持っておねえさんの所で買ってらっしゃい」
 「ホントにいいの?」
 「えぇ。いいわよ」
 「やったー♪」
春香は喜び勇んで車内販売員の所に向かった。五代は、そんな春香の様子がいとおしかった。間もなく春香は弁当を買って戻って来た。しかしなかなか食べようとしない。
 「どうした?春香。食べたいんじゃなかったのか?」
 「だって、おいすがないもん」
春香は、響子から立ち食いはいけないと教育を受けていたのだ。
 「今日は特別よ、春香。上野に着くまでに食べちゃいなさい」
 「うん、わかった♪」
 「”うん”じゃなくて…」
 「はい。ママ♪」
新幹線は高崎から熊谷、大宮と順調に停車し、もう直ぐ上野に到着するときだった。
 「パパ。もうおなかいっぱい」
 「え?もう直ぐ上野だってのに、こんなときに渡すなよ」
 「ごめんなさい。でもはるか がんばったの」
 「いいのよ、春香。パパがちゃんと残さず食べてくれますからね」
 「おい、響子。お前まで…」
 「大丈夫よ。上野のベンチで食べましょう?」
 「あたしも喉(のど)渇いちゃったし…」
 「じゃ、そうするか」
上野駅に到着した五代一家は、改札に向かうひとの波に逆らって、ベンチに腰を下ろした。
 「っはー」
響子はベンチに座るなり、大きな溜息を吐いた。
 「たった2時間なのに、あんなに疲れるなんて」
 「もう全身、筋肉痛のようよ」
 「ママ、だいじょうぶ?」
 「ありがとう。大丈夫よ」
 「済まんな。響子の分だけでも指定席が取れればよかったんだけど…」
 「しょうがないですよ、あなた。Uターンラッシュなんですもの」
 「あぁ。でもこんなに響子の身体に負担が掛かるなんて、思ってもなかったんだ」
 「まぁ、初産のときはあたし、遠出しなかったから、こんなこと分らなくても当然ですよ」
 「それにあなたは男性ですし…」
 「でもホントにそろそろ実家に行った方が楽だわ」
 「そうだな」
 「あなた、生活大丈夫?」
 「学生時代はそれなりにやってたから、まぁ、大丈夫だとは思うけど…」
 「じゃぁあなた。ご自分のパンツ、どこにしまってあるか分かりますか?」
 「え?パンツ?」
五代は狼狽(ろうばい)した。そういえば、銭湯に行くときはいつも、響子が自分と春香の着替えを用意してくれていたのだ。
 《押し入れも綺麗(きれい)に整頓されているし、パンツは一体どこにあるんだろう?》
五代はいきなり独りで暮らす自信を失ってしまった。
 「これからはあたし、全部あなたにやってもらうことに決めましたから」
 「え?そんな…」
 「”そんな”って言われても、独りで生活できなきゃ駄目じゃないですか」
 「まぁ、そうだな…」
だるま弁当の弁当の味は、もさもさして味がよく分からなかった。



五 修行

 「ばうー、ばうばう」
 『ただいまー♪』
五代たちの声を聞き付けた一の瀬が、にやにやしながら迎えてくれた。
 「お帰り。新潟はどうだった?」
 「相変わらずですよ。雪には降られるし、新幹線は満員だし…」
 「そうじゃなくってさぁ」
一の瀬は焦れったそうに響子に目配せした。
 「あ、そうそう。一の瀬さんにお土産があるんですよ」
 「それだよ、それ」
 「はい、笹団子。少ないですけど」
 「いやー。あたしゃこれに目がなくってねぇ」
一の瀬が喜んで笹団子を受け取っていると、横からにゅーっと手が出て来た。
 「帰省には 忘れちゃいけない お約束 遊ぶ春日は くれずとも好し」
 「四谷さん!何ですか、いきなり」
響子がくすっと笑いながら四谷にも笹団子を渡す。
 「大丈夫ですよ。はい、四谷さんの分も買って来ましたから」
 「毎度、ありがとうございます。いやぁ、いつも済みませんな」
 「ったく。皆、寄って集(たか)って…」
 「そんなことたないよ。あたしゃ管理人代行をやってたんだから、当然の報酬じゃないのさ」
 「一の瀬さんはいいんです、一の瀬さんは。でも四谷さんは何にも…」
 「五代くん。水臭いですな。君と私は、喜びも悲しみも分かち合った仲ではありませんか!」
五代は冷笑した。
 「そろそろ袂(たもと)も分かちたいんですがね」
 「今月の店賃(たなちん)、ちゃんと期日までに払って下さいよ!」
 「わったしっのみっみはー、ろっばのっみみー♪」
四谷はあっという間に退散した。その様子を見て響子が吹き出した。
 「あなた。あんなに言うこと、ないじゃありませんか」
 「いや、何となく。四谷さんには昔、よく集られてたもんで、つい…」
五代はもじもじと指を組んだ。
 「それよりさぁ、あんた、身体の方は大丈夫だったのかい?」
 「えぇ。でも陣痛が始まったみたいなんです」
 「陣痛?」
 「えぇ。何となくお腹の下の方が、ずーんと鈍い痛みがして…」
 「あぁ。そりゃ陣痛の初めだよ。あたし、賢太郎のときもそうだったから…」
 「一の瀬さんがいて下さると、何かとこころ強いですわ」
 「まぁ、何かあったら、あたしに相談しな」
 「ありがとうございます」
すると手を繋(つな)いでいた春香が五代の腕を揺すぶった。
 「パパー。はるか つかれたー」
 「あぁ、あぁ、分かった。早くお部屋に戻ろうな」
 「じゃぁ、一の瀬さん。失礼します」
 「あんま無理するんじゃないよ」
 「はい」
五代一家は管理人室に戻ると、三人が三人とも足を投げ出した。
 「あーぁ」
 「疲れたなー」
 「あなた。悪いんですけど、ジュース持って来て下さらない?」
響子は妊娠してからグレープフルーツジュースを好んで飲んでいたのだ。やはり酸っぱい物が欲しくなるのだろうか?しかし噂に聞くように、土壁を食べたりとかは流石(さすが)にしなかった。
 「はい。ジュース」
 「ありがとうございます」
響子はジュースを受け取るなり、旨そうに一気に飲み干した。それほど喉が渇いていたのだ。その様子を見た五代は、新幹線で立ちっ放しにさせてしまったことを、改めて後悔した。
 「あたし、お茶を淹(い)れます」
一服した五代は、早速荷解きに執り掛かった。先ず汚れ物を取り出すと、それを響子に渡す。すると響子は厳しく五代を突き放した。
 「あなた。ご自分で洗濯して下さい」
 「え?」
 「これからあたしは、ひと月程留守にするんです」
 「あなたにはちゃんと生活してもらわないと…」
 「洗濯くらい独身中にやってたよー」
 「じゃぁ、家の洗濯機の使い方、分かります?」
 「…」
 「じゃぁ、やって下さい」
 「へぇへぇ」
五代は汚れ物を洗濯機に入れたのはいいが、次にいきなり洗剤を入れようとした。
 「あぁっ!」
響子が叫ぶ。
 「え?」
 「やっぱり…」
響子は呆(あき)れて腕組みをした。
 「先ずは蛇口を捻(ひね)って水を張るんです。洗剤はその後から…」
五代は洗濯の講習をひととおり受け、洗濯物を干す段になった。そのまま干そうとする五代に、響子がまた横から口を出した。
 「物干し竿(ざお)は、予(あらかじ)め水拭(ぶ)きして下さい。汚れた竿にお洗濯物を干したら、お洗濯物が汚れちゃうわ」
 「へぇへぇ」
五代は洗濯が終わると、五代は鞄やその他の細々とした物を仕舞うことになったが、どこに何を仕舞っていいか、皆目見当が付かなかった。
 「やっぱり初めから教えないと駄目みたいですね」
響子は呆れて五代にひとつひとつ物の仕舞い場所を教えた。漸く荷物の整理が済んでひと段落すると、響子が甘いものを持って来た。
 「これ、笹団子。ちょっと蒸かしてみたんです」
 「ありがとう。これが旨いんだよな」
五代が熱い餡子(あんこ)をはふはふ言いながら食べている様子を見て、響子は申し訳ない気持ちで一杯になっていた。
 「あなた。あたしと春香がいなくなっても、大丈夫ですね?」
 「ん。今ので大体理解した」
 「それはよかったわ」
響子は何となく寂しい気持ちになった。一心不乱に笹団子を食べる五代の姿を、いつまでも見続けていた。
そして夕方。
 「じゃぁ、あたし、実家に戻る手配をしますから、あなた、宜しくお願いしますね」
 「うん、分かった」
響子が黒電話のダイヤルを回す。
 プルルル…。
 「あ、もしもし。お母さん?響子です」
 「…え?んもう。だから今、そっちに帰る相談をしようと思ってたとこ」
 「…そう。陣痛が始まったの」
 「それでひと月程春香を連れてそっちでお世話になりたいんだけど…」
 「えぇ…えぇ。んもう分かったから…」
 「…え?明日から?」
 「まぁ、早いことに越したことはないけど…」
 「…分かりました。じゃ、明日から宜しくね」
 チン…。
響子は電話を切ると、五代の方に向き直った。
 「あなた、ごめんなさい」
 「母が明日から来いって」
五代は少し不安を抱えつつも笑って言った。
 「いいよいいよ。早い方が」
 「その方がお義母さんも安心するだろう?」
 「大丈夫かしら?」
 「大丈夫だって。心配しないで行って来いよ」
   「そうですか?」
響子は五代の独り暮しが心配なようだ。
 「だって俺、一刻館(ここ)で6年以上も独り暮ししてたじゃないか」
 「だから心配なんですよ」
響子は、五代が自炊もせずにカップラーメンばかり食べていたこと、住人に巻き込まれて酒浸りだったことを心配しているのだった。
 「分かりました。実家は近いですから、晩ご飯だけでも食べに来て下さいな」
 「分かった。そうするよ」
 「…痛!」
突然響子の陣痛が始まった。この間よりは痛みが増したようだ。
 「響子。お前、身仕度はできるか?」
 「俺が手伝うよ」
 「ありがとうございます」
五代は響子の指示を受けながら荷物を纏(まと)めた。
 「じゃぁ、これで明日から大丈夫だな」
 「えぇ。実家には母もいますし…」
 「よし。じゃ、今日はどこかに食べに行くか」
 「わーい♪」
五代一家は大歓喜で中華料理を満喫した。



六 出産

あれからひと月。出産の予定日が間近に迫っていた。あれから暫く陣痛らしきものはなかったが、劇しい腰痛に襲われるようになり、家事や春香の面倒も、その度に休み休みになっていた。律子があれこれと世話を焼いてくれたお蔭で、響子の生活は非常に楽なものだった。響子自身、今回は二度目なので、出産に心配はしていなかった。唯々安産と児の健康を祈るだけだった。
一日の家事も終わって、律子と休んでいたとき、それは起こった。
 「痛!」
 「あら。また?」
律子は時計を見る。
 「15分おき位かしら?」
 「あなた、そろそろ病院に行きなさいよ」
 「う…ん」
初産と異なり、二人目は産道が開きやすくなっている。思いがけず破水などしたら一大事だ。響子は律子の肩を借りながらエレベーターで地上に降りた。実家の前の道は車通りが少ないため、響子たちは少し広い通りまで歩いて出なければならなかった。律子は響子に肩を貸しながら、もう片方の手で春香を注意深く牽いて行った。大通りは環八の迂回(うかい)路によく使われる通りだ。タクシーなどは渋滞を嫌って、よくこの通りを走っている。律子は流しのタクシーを見付けると、オーバーに手を振った。タクシーが止まる。
 「荻窪病院まで」
荻窪病院は、産婦人科を中心とした歴史のある病院だ。響子の実家からも近いため、この病院にすることを決めたのだった。
 「響子、しっかりね」
 「春香の面倒は、あたしが看ておくから…」
 「ありがとう」
タクシーが病院に到着した。病院の受付が尋ねる。
 「どうしました?」
 「陣痛が15分おきにあるんです」
 「何人目のお子さんですか?」
 「二人目です」
 「じゃぁ、急いでこちらへどうぞ」
響子は手術着を着せられ、ベッドに横になった。
 「下着は脱いで、これを穿(は)いて下さい」
看護婦が響子に手渡したのは丁字帯だった。晒で出来た紐(ひも)パンツのような形をしていて、局部を隠すためだけにあるような物だった。響子は丁字帯を穿くのが恥ずかしかった。しかし、もうこの期に及んで四の五の言ってはいられない。響子がベッドで横になっている間も、陣痛は容赦なく襲ってくる。10分、5分、3分。陣痛の間隔が段々短くなってきた。
 「ぎゃーっ!」
 「死ぬーっ!」
 「助けてーっ!剛さーんっ!」
隣りの分娩(ぶんべん)室では、前の女性の叫び声が延々と聞こえてくる。その凄まじさに響子は不安を覚えた。
 《次はあたしか…》
出産は、女性にとって悦びである以上に地獄である。春香を産むときに経験はしたのだが、あの痛みは並大抵のものではない。そのときが再び訪れようとしているのだ。響子は眉を顰めて不安そうにベッドのシーツを握り締めた。横に控えていた看護婦は、優しく微笑みながらも、出産の厳しさを暗に諭していた。
 「響子、しっかりね」
響子の頭の中では、律子のことばが繰り返し木霊(こだま)していた。母の愛を感じると伴に、藁(わら)にも縋(すが)りたい気持ちだった。
 「五代さん、ご気分は如何ですか?」
傍(そば)にいた看護婦が響子に尋ねた。
 「えぇ。でも陣痛がもう…」
響子が言うが早いか、看護婦はラテックスの手袋をした手で、響子の局部に手を突っ込んだ。
 「あひっ!」
響子は思わず声をあげた。看護婦は響子の子宮口を探り、頭が出ていないか確認していた。それを何回か繰り返した後、看護婦は急いで部屋を出て行った。
 「五代さん。そろそろですから、こころの準備をしていて下さい」
すると間もなく病室の扉が開き、ストレッチャーが入って来た。
 「五代さん、これに乗せますからね」
数人の看護婦が響子の身体を持ち上げてストレッチャーの上に乗せた。看護婦たちに囲まれながら、響子は不安を抱え、ひとり分娩室へ向かった。
分娩室には、医師と助産婦、そして見習の看護婦などが待機していた。響子は陣痛が酷くて、もう自分が何をされているのか分からなかった。響子は分娩台に乗せられた。分娩台は上昇して、丁度(ちょうど)医師の目の高さに脚を広げた響子の股間(こかん)が露呈された。陣痛とは異なる強烈な痛みが襲ってきた。医師は冷静に響子の局部を観察している。数人の看護婦が響子の横に立った。
 「五代さん。初めは痛くても息まないで下さい」
 「は…い」
次から次へと波のように劇痛が襲う。いつになったら産めるのか?響子は気も狂わんばかりだった。すると医師が言った。
 「始めて下さい」
看護婦は響子の手を握り、耳元で言った。
 「五代さん、いいですか?痛みがきたら、それに合わせて息んで下さいね」
 「呼吸法は分かりますよね?」
 「”ヒ、ヒ、フー”ですから」
 「はいっ!」
響子は返事をする代わりに叫んだ。
劇痛が響子を襲う。
 「あーっ!」
 「五代さん。”ヒ、ヒ、フー”ですよ!」
 「ヒ…、ヒ…、フー」
 「駄目です。もっと息んで。ほら!ヒ、ヒ、フー!」
 「ヒ、ヒ、フーッ!」
痛い、痛い、痛い。何で自分がこんな目に遭(あ)わなければならないのか?もう死んでしまいたい。響子は思わず弱気になった。
 「あーっ!死ぬーっ!」
看護婦の檄(げき)が飛ぶ。
 「もう!しっかりしなさい。あなた”お母さん”でしょ!」
 「ヒ、ヒ、フーッ!」
 「もっと!」
 「ヒ、ヒ、フーッ!」
 「もっと力をいれて!」
 「助けてーっ!裕作さーんっ!」
響子の局部から漸く頭が出て来た。空(す)かさず医師が指示を出す。
 「会陰(えいん)切開」
 「はい」
看護婦が医師にメスを渡す。医師は麻酔もかけず、響子の局部から肛門に架けてメスで切開した。
 「あーっ!」
響子の叫びは極度に達した。
痛い、痛い、痛い。もう自分がどうなっているのかも分からない。自分は生きているのか、死んでいるのか?この痛みは何なのか?響子の意識は次第に薄れていった。
 「おぎゃー、おぎゃー」
 …生まれた。
看護婦は臍帯(さいたい)を結紮(けっさつ)すると、素早く切断し、児を産湯で洗った。
 《終わった…》
響子の頭の中は真っ白だった。どれだけの時間が経ったかも分からなかった。唯々呆然(ぼうぜん)として天井を眺めていると、看護婦が洗い終わった児を響子の傍(かたわ)らに持って来てくれた。
 「ほら。元気な男の児ですよ」
 「おぎゃー、おぎゃー」
嬰児(みどりご)は小さくて、触ると壊れてしまいそうだった。響子は悦びに溢れていた。
 「おめでとうございます」
看護婦たちは口々に響子を労(ねぎら)った。次の瞬間。響子は局部に違和感を覚えた。
 ゾロッ…。
後産(あとざん)だ。響子の肝臓のような胎盤は、無造作にバケツに入れられて運び出された。今まで響子の胎児を育んでくれた大切な臓器だ。もっと大事に扱ってくれてもよさそうなものなのに。でもそんなことは、響子にとってはどうでもよかった。児を無事出産できたことだけが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
生まれた児は、足の裏にマジックペンで番号が書かれた。響子の手首にも、同じ番号が書かれたタグが付けられた。児は直ぐさま保育室へ運ばれた。響子は恥ずかしい恰好(かっこう)のまま、暫く放置されていた。気が付くと、先程切開された筈(はず)の会陰部は既に縫合されていた。縫われていることすら分からなかった。何だか不思議な気持ちだった。響子は看護婦に助けられて分娩台から降りた。信じられないくらい身体が軽い。響子は、自分の出産が終わったことを実感した。しかしまだ何か股間に物が挟まっているような感じがしていたし、出産で疲労困憊(こんぱい)していたので、歩くことはできなかった。響子はそのままストレッチャーに乗せられて、再び病室に運ばれた。
廊下に出ると、知らせを受けた五代が待っていた。五代がストレッチャーに詰め寄る。
 「大丈夫か?響子」
 「えぇ」
響子は五代の優しい顔を見た瞬間、涙が溢れてきた。
 「響子。よく頑張った。でかしたぞ」
五代が労(いた)わるように響子の顔を覗き込む。響子は、次から次へと溢れ出る涙を拭(ぬぐ)うこともできなかった。五代の後ろには、律子が涙を薄らと浮かべたまま、黙って立っていた。



七 一刻館

 「平成7年2月17日19:07生 2600g 五代響子 男」
生まれた児の頭の上には、このような札が掲げられていた。同じような子供が沢山いる中で、響子は自分の児を真っ先に見付けた。
 「ほらっ、見て。あの児」
 「え?どこどこ?」
五代にはまだ見付けられないようだ。
 「ほら。前から3列目の左から8番目」
 「あー!あれか」
保育室では、沢山の児たちが泣いたり眠ったりしていた。響子の児も元気に泣いている。すると急に響子が胸を押さえた。
 「ん?響子。どうした?」
 「胸が熱いの。何かパンパンに脹(は)って痛いの」
 「大丈夫か?」
 「お乳あげなきゃ」
響子は無心で保育室に入り、小さい小さいしわくちゃな児を、壊れ物を扱うように大事に抱えると、そっと自分の乳房を宛てがった。まだ目も見えていないその児は、それでも響子の乳首を捜し当て、懸命に乳を吸っていた。赤くて小さい手はしっかりと握られている。そして乳を吸う間合いに合わせて、微妙に握ったり開いたりしている。母子の美しい光景だった。響子は授乳をすると胸の脹れが萎(しぼ)むようで楽になった。何だか嬉しくて堪らなかった。春香が生まれてから7年。久し振りに感じた優しく強い母性だった。五代はその様子をガラス越しに見ていた。手前味噌ではないが、やはり自分の児が一番可愛く見える。五代は響子の姿をいつまでも黙って見守っていた。
あれから5日、響子の退院の日がやってきた。一刻館では、一の瀬が焦れったそうに廊下をうろうろしていた。響子の帰りを待っているのだ。そこへ玄関の扉が開く音がした。
 「こんちゃーっす」
 「あぁ、朱美さん」
 「管理人さんは?」
 「まだだよぉ。そろそろ来てもいい頃なんだけどねぇ」
ふたりは玄関を出て外で待つことにした。2月の冷たい風が吹き荒(すさ)ぶ。
 「うー…、寒」
 「ホント、やんなっちゃうわよね」
吐く息が白く曇る。蒼穹はどこまでも高く、庭の植物には生命の息吹が感じられなかった。葉を落とした灌木(かんぼく)には縮れた蜘蛛(くも)の糸が絡まり、枯葉がくっついていて、風が吹く度にくるくると舞っていた。
ふたりは、あまりの寒さに両腕を抱えて足踏みをしていたが、一の瀬は耐え切れず、一刻館の中に入ろうとした。
 キキーッ…。
そこへ一台のタクシーが一刻館の前に止まった。
 「わー!」
朱美の顔が明るくなる。
 バタン…。
 『ただいまー♪』
タクシーから降りたのは、春香の手を牽いた五代と、嬰児を抱いた響子だった。
 「お帰り」
一の瀬が踵(きびす)を返して響子に駆け寄る。
 「ねぇ。赤ちゃん、見せて見せて」
朱美も至極楽しそうだ。響子は、児の首がずれないように、慎重に向きを変えて児を披露した。
 「わー…。ちっちゃい…」
 「可愛い児だねぇ」
 「ねぇ。男の児?女の児?」
 「男の児です」
五代が胸を張った。
 「名前はもう決まったのかい?」
 「えぇ。いろいろ考えたんですけど、お姉ちゃんが春香だから、”冬樹”にすることにしました」
 「春夏秋冬の”冬”に、樹木の”樹”です」
 「へぇ…。”冬樹くん”…」
 「好い名前じゃないか」
 「ありがとうございます」
五代は嬉しくて鼻の下を人差し指で擦(こす)った。
 「さぁ、春香、響子。お部屋へ戻ろうか」
 「えぇ」
五代が響子の肩を抱いたそのとき、突然爆発音がした。
 パンパン…。
 「おめでとうございまーす」
それは玄関の蔭に隠れていた四谷だった。
 「五代くん。よかったじゃありませんか」
五代は少しだけ腰を抜かした。
 「あはあは…。ありがとうございます」
すると頃合(ころあい)を見計らって一の瀬が大声を張り上げた。
 「それじゃぁ。今日は盛り上がるかねぇ」
 「いいですなぁ」
 「いいわね」
 「パーっといこ。パーっとさぁ」
五代は口を尖(とが)らせた。
 「そ、そんな…。冬樹が生まれて間もないってのに」
 「だからさぁ。こんなおめでたいこと、お祝いせずにはいられないじゃないか」
 「だって…」
 「まぁまぁまぁ、五代くん。私に考えがあります」
 「え?考え?」
五代が四谷に耳を寄せる。
 「はい。これはひとつ、お姉さまであります春香ちゃんに伺ってみようじゃあ〜りませんか」
 「何が”これはひとつ”だ」
 「春香ちゅわ〜ん。どう致します?」
住人の期待が一身に集まる。春香は五代と響子の顔を交互に見る。五代は黙って首を横に振っている。響子は上を見て冷や汗を掻いている。
 「さぁ!ご決断を!」
春香は人差し指を咥(くわ)えながら、暫し考えているようだった。長い時間が経った気がした。次の瞬間、春香の顔が急に明るくなった。
 「パーっといこう♪」
 『決っまりー!』
 「やー。今日はおめでたいですなー」
 「何たって五代くんの奢(おご)りだもんね。サンキュー」
 「皆さん何言ってるんですか!奢りませんからね!」
 「そんなこと言わないでさぁ。飲もう!飲もうよ!」
 「お、奢りませんからね!」
 「わははは…」
またしても住人のペースに巻き込まれてしまった。五代が響子の表情を窺(うかが)う。響子は事の外ご立腹のようだ。
 《やばっ。拙(まず)い…》
 「ほらほら、あんたたち。何突っ立ってんのさぁ」
 「そうですよ、五代くん。春香ちゃんもお待ちかねですぞ」
 《あっ!?》
気が付くと春香がいない。
 「パパ、ママ。パーっといこ。パーっと♪」
 《春香のノリは、やっぱりばあちゃんに似ている…気がする》
がっくりと肩を落とした五代だった。
 「わははは…」
 「あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…」
寒風の吹く中、一刻館はあたたい空気に包まれていた。(完)