惣一郎の遺したもの


作 高良福三


序 入園式

今年も桜の季節がやってきた。朝晩がきりりと冷える今日この頃、日中のあたたかさは、参加者にとって何よりの幸いだった。桜の花びらが白雪のように舞う中、春香の幼稚園の入園式が行われていた。春香も今年で5歳。五代の念願が叶(かな)って、今年から二年保育の幼稚園に上がることになった。入園式では、園長の挨拶(あいさつ)が行われていた。五代は、少しでも春香の晴れ姿を収めようと、カメラを構えていた。五代のカメラを意識する春香。
 「パパ、こっち!きれいにとってね♪」
父兄席から声を殺して窘(たしな)める響子。
 「こら、春香!ちゃんと前を向いてなさい!」
 「えへへ…」
笑ってその場を誤魔化(ごまか)す春香。よくある入園式の風景だった。
式も終わって記念撮影の段になった。そそくさと身繕いをする響子に対し、思いっきり変な顔をする春香。響子が春香をまた窘める。春香は性懲りもなく、笑ってその場を誤魔化す。さっきからその繰り返しであった。カメラを手に、その様子を見ていた五代はふと思った。
 《春香のノリの良さは、ばあちゃんに似ている…気がする》
そう思うと、これから先が思い遣られると、危ぶむ五代であった。
   「パパ!こっちこっち。はるかをとって♪」
そんな五代の気持ちにはお構いなく、春香の声が聞こえる。
 「じゃぁ、撮るよー」
 「はい、チーズ」
にこっと笑う顔に、どことなくゆかりの面影を見る気がする。カメラを持つ五代の手が小刻みに震えていた。
 「あら。あなた、どうなさったの?」
五代の異変に、響子が尋ねる。
 「いやぁ、あはあは…」
いつもながら、五代は情けない。
こうして入園式は無事終了した。
春香が入ったのは、時計坂幼稚園だ。初めは、しいの実保育園にという話も出たのだが、五代と一緒というのも気を遣って大変だろうということで、一刻館の近くにある時計坂幼稚園になったのだ。往(い)きは、五代が出勤する序(つい)でに春香を幼稚園に預け、復(かえ)りは、響子が迎えに行くことになっている。響子の仕事がひとつ増えることになるが、春香を預かってもらう間、管理人の仕事が少しは楽になるだろうとの、五代の配慮でもあった。
幼稚園の門柱の前で、響子が五代に無邪気にせがんだ。
 「あなた。ここで春香の写真を撮りましょうよ」
 「パパ。とって、とってぇ♪」
 「え?…あぁ」
 「よぉし。じゃぁ、春香。にっこり笑って…」
響子と春香が微笑む。
 「はい、チーズ!」
 「じゃぁ、今度は春香ひとりで。ね?あなた」
響子がいやにはしゃいでいる。
 「よし。はい、チーズ」
 「うふふ。よかったわね、春香」
 「うん♪」
 「これ、春香。これからは、おねえさんになったんだから、『うん』じゃなくて『はい』でしょ?」
 「はい♪ママ」
 「そうです。それでいいのよ」
響子は、自分の子供の頃のことを思い出していた。転勤族の父の仕事の関係で、幼稚園の年長組になるとき、引越しをしたことがある。そのため、これといった幼馴染(なじみ)もおらず、幼稚園の頃はいつも家にいて、母親と一緒だったような記憶がある。だから地元の幼稚園に娘を上げられるというのは、響子にとって嬉しさもまた一入(ひとしお)だった。
幼稚園からの帰り途、白雪のように舞い落ちる桜の中で、五代は春香に訊いた。
 「どうだ?春香。幼稚園は楽しそうか?」
 「うん、とっても♪だってねぇ、すごいのよ♪すなばのよこに、こーんなおっきな、きがあるの♪」
 「春香?あれは楠(くすのき)っていうのよ」
 「くすのき?」
 「そう。楠はねぇ、とっても大きく育つ木なの」
 「そうか。春香はあの楠が気に入ったか」
 「うん♪」
 「これ、春香。”うん”じゃなくて”はい”でしょ」
 「はーい♪」
 「そうだな。春香も、もうおねえさんだもんな」
 「でもはるかには いもうとも おとうとも いないよ」
 「どうして、おねえさんなの?ママ」
 「え?…そ、それは…そうね。パ、パパに伺ってご覧なさい」
 「ねぇ、パパ。どうして?」
 「そ、そうだな…」
五代はちらっと響子を見やった。
 「春香にも、今に妹や弟ができると思うな」
響子は五代の顔が見られなかった。何も言わず、五代のジャケットの裾を思いっきり引っ張って歩いていた。
 「ママ。なんでパパのことひっぱるの?」
 「え?」
響子は益々(ますます)顔を赤らめた。仕方なく、五代が助け舟を出した。
 「…ママも妹や弟が欲しいんだよ、きっと」
 「ふうん…へんなの」
 「よし、春香。これからパパと一刻館(おうち)まで競走だ」
 「うん♪」
 「春香、転ぶんじゃないわよ。余所(よそ)行きのお洋服なんだから」
 「はーい♪」
 「よーぉい、ドン」
大小の影が時計坂を元気良く駆けて行った。



一 春の墓

テレビの天気予報では、明日は晴れだそうだ。明日は惣一郎の命日。毎年、五代一家は、この時期に惣一郎の墓参りに行く。五代も、ちょうど明日は仕事が休みなので、都合が良かった。その前日、五代と春香を送り出した響子は、5号室で三人の礼服を陰干ししていた。五代のいなくなった5号室は、五代一家の箪笥(たんす)部屋になっているのだ。風通しのために開けた窓を見下ろせば、街のあちこちには、桜の木々が島のように浮かんでいた。陽射しは、春とは思えないほど強烈だった。空にはきぬ雲が高く浮かび、三羽の雲雀(ひばり)が楽しそうに、絡み合ってじゃれていた。
 「今日もいいお天気ね…」
響子は時間を忘れて、暫(しばら)く外の景色に見入っていた。そこへ階下(した)から電話の音が聞こえてきた。
 ジリーン、ジリーン…。
響子が慌てて電話に出る。
 「はい、五代でございますが…」
 「あ、響子?」
 「あぁ、あなた」
 「明日のことなんだけどさ。墓参りの帰りに、音無の家にも寄らないか?」
 「えぇ、そうね。じゃぁ、あたし、何かお仏前にお菓子でも買っておきます」
 「悪いな。じゃ、宜しく頼むよ」
 「えぇ。それじゃぁ…」
 チン…。
響子は神妙な面持ちで電話の受話器を置くと、静かに目を閉じた。
 《惣一郎さん…》
響子は、そうこころの中で呟(つぶや)いた。惣一郎と出会ってもう何年になるだろう。初めて遇(あ)ったのは、高校一年生のときだった。惣一郎は響子の通う高校の非常勤講師として来たのだ。惣一郎とは高校卒業の一年半後に結婚。そして半年経たない内にまさかの死別。その後五代と出会い、6年半に亘(わた)る微妙な交際(?)の後に再婚。そして春香を授かり早5年。実に18年の歳月が流れようとしていたのだった。しかし響子のこころの中には今でも惣一郎の影があった。五代と結婚を決めたとき、響子は惣一郎をこころの奥底へ沈めようとも考えたことがあった。しかし結婚前、五代は惣一郎が響子の一部だということを認めてくれた。それだからという訳ではないが、響子は、五代の中に在りし日の惣一郎を重ね合わせながら、現在に至っている。響子は、自分が今幸せなんだと思う。亡き先夫の家のアパートに住み、愛する夫と暮らし、娘を授かり、そして夫はふたりめの子供も考えてくれている。その中にいて、明日惣一郎の墓参りに行くのだ。響子にとって、この墓参りは実に複雑であり感慨深いものであった。
響子は春香を迎えに行った帰り、商店街で仏前の菓子を購入した。
 「やったー♪おかしだー♪」
 「これ。これは春香のではありませんよ」
 「じゃぁ、だれのおかし?」
 「惣一郎さんのです」
 「そういちろうさんて?」
響子は返答に詰まった。
 《この子にどうやって説明しよう。嘘はいけないわよね。でも本当のことを言うのは、もっと難しいわ…》
 「そうね…。パパとママにとって、とっても大事なひとって言ったらいいのかしら」
 「ふうん」
そうこうしている内に、茶々丸の角に差し掛かった。茶々丸の店先では、朱美が掃除をしていた。
 「れれ、管理人さんじゃないの」
 「朱美さん、こんにちは」
 「こんちゃー♪」
 「これ、春香。”こんちゃー”じゃなくて”こんにちは”でしょ?」
 「こんにちは♪」
 「えらいわ、春香ちゃん。よくできたわね」
 「でもどうしたの管理人さん、お菓子の包みなんか持って…」
 「えぇ、明日は、惣一郎さんのお墓参りに…」
 「あ、そうか。命日か…」
 「それで、季節ものですから、桜餅を少々…」
響子は高校時代を思い出していた。地学の職員室に行ったとき、惣一郎から茶を勧められたことがある。惣一郎は桜餅が欲しかったのだが、売切れで手に入らなかったという。それをこころから悔やむ惣一郎と食べた饅頭(まんじゅう)の味は、嬉しさが先立って、美味しいのか美味しくないのか判らなかった。
朱美は、そんな響子の顔を上目遣いで見て、ほくそえんだ。
 「ふうん」
 「今のあんたの姿見たら、惣一郎(だんな)さん、きっと喜ぶよ」
響子は少しはにかんだ。
 「そうかしら?」
気が付くと、春香が朱美の塵取(ちりとり)を振り回して遊んでいた。
 「きゃー♪カパカパー♪」
 「これ、春香!」
 「朱美さん、ごめんなさい…」
 「いいっていいって」
 「その代わり、また住人(みんな)と飲みに来てよねー」
管理人室に戻った響子は、明日の準備を始めた。花はお寺の近所で買うことにして、線香と菓子は揃(そろ)った。後は向こうで食べるお弁当の用意。これで準備は万端だ。しかし響子には、一抹の不安があった。
 《あのひとは、惣一郎さんのお墓参りのこと、いつもどう思ってるのかしら?》
これは、響子にとって、非常に重要なことであった。結婚前、五代は、惣一郎の墓前で確かに言った。「正直言って、あなたが妬(ねた)ましいです」と。しかし、こうも言ってくれた。「あなたもひっくるめて、響子さんを貰います」と。このこころの揺れを、響子はどう理解していいか分からなかった。毎年この季節になると、五代の方から墓参りに誘ってくれる。だから五代が墓参りを嫌がっていないことは確かだと響子は思う。でもそのこころは?この時期になると、必ず頭を擡(もた)げる問題だった。響子は、今は唯、五代の愛情に身を委ねるしかないのだと思うことにしていた。
その日の夜。五代が帰ってきた。
 「ただいま」
 「お帰りなさい」
 「あの…」
響子は何か言いた気だった。しかし五代は明るい笑顔で言った。
 「明日はお墓参りに行くんだから、今日は早く寝ないとね」
響子は慰められる思いがして、気持ちが明るくなった。
 「そうね。準備はもう出来てますよ」
その日の夜は、恙(つつが)無く過ぎた。
次の日。五代は玄関で革靴の紐(ひも)を結んでいた。
 「響子ー。もう行くよー」
 「はーい、ごめんなさい。春香の仕度に手間取っちゃって…」
パタパタとスリッパの音をさせながら、響子が春香を連れて管理人室から出てきた。五代が促した。
 「さぁ、行こう」
惣一郎の墓参りの日は、決まって天気が良かった。今日も快晴に近い日和だった。どこまでも青い空に薄い絹雲が高く浮かんでいた。五代は何故か嬉しくなった。
 「今日もお天気で良かったな」
 「本当。惣一郎さんのお墓参りの日は、いつもお天気で助かるわね」
妙法寺は今年も桜が満開だった。青々した草叢(むら)の中を、一段一段昇って行くに連れて、視界が開けていく。ときおり吹く風は、少しだけ汗ばんだ肌に心地好(よ)かった。
 「いやぁ、ホント春一色だな」
 「本当。きれい…」
三人は桜の花びらが舞い散る境内を歩く。この時期、参詣するひとの姿は疎らだった。五代は手桶(おけ)と花を手に、響子は春香の手を牽(ひ)いて墓地の中を歩いていた。その一歩一歩が、ふたりのこころを寂静(じゃくじょう)の境地へ誘ってくれた。
 音無家累代之墓
この墓石の前で、ふたりは立ち止まった。春香もその場の雰囲気を察してか、非常に大人しかった。五代が墓石に水を掛けた後、線香と花を手向けた。
 「春香。ちゃんとお参りするのよ」
春香は「お参り」の意味が分からなかったが、ふたりのすることを真似して、手を合わせて目を瞑(つむ)り俯いてみた。お参りする五代の横顔は、凛(りん)として穏やかだった。
 《惣一郎さん。お蔭様で春香も5歳になりました。響子も元気です。そろそろ第二子を儲けようと考えています》
その様子を見て、響子は何だかほっとした様子だった。安らかな表情で黙って数珠を手にした。
 《惣一郎さん。心配かけるかもしれないって言いましたけど、私たち、この一年も何とか無事に暮らせました。ありがとうございます》
暫くしてお参りを済ませた響子に、五代が微笑みかけた。
 「今年も報告できた?」
 「えぇ。ありがとうございます」
 「春香はちゃんとお参りできたかな?」
 「はるかも、ちゃんとおまいりした♪」
 「本当か?」
 「したもん!」
 「そうかそうか…」
五代一家は、近くの草叢でお弁当を広げた。一陣の風が辺りを振るわせた。風に飛ばされないように、五代が慌ててピクニックシートの四隅に荷物を置いた。遠くからは、風に乗ってパーンという電車のクラクションが聞こえてくる。さらさらと靡(なび)く髪に、思わず目を瞑った響子の表情には、朗らかさの中にも翳(かげ)りが見えた。
 《そうか。まだ惣一郎さんがいるんだな…》
五代は、ちょっと寂しいような、また嬉しいような気持ちになった。



二 音無家の異変

五代たちは、その足で音無家に向かった。
 「ごめんください」
 「よぉ、五代くん」
 「まぁまぁ、皆して。いらっしゃい」
音無家のひとびとは、今日も気さくに迎えてくれた。
 「突然伺って済みません」
 「どうかしたのかね?」
 「今日は惣一郎さんのお墓参りに来たので、こちらにもご挨拶をと思いまして…」
 「そうかそうか。まぁ、立ち話も何だから、お上がりなさい」
 「お邪魔します」
 「お邪魔いたします」
 「ほら。春香も”お邪魔いたします”って言いなさい」
 「おじゃまいたします♪」
 「ほう。春香ちゃん、お行儀がいいなぁ」
 「いえ。そんな…」
 「それより、お義姉さま。本当に済みません。突然大勢で押し掛けちゃって…」
 「あら、いいのよ。親戚が来たみたいで、家は大歓迎よ」
 『ありがとうございます』
音無老人は、痛い腰を屈めて春香に尋ねた。
 「春香ちゃん?元気だったかな?」
 「はい♪げんきです」
 「済みません。まだやんちゃなものですから…」
 「そんなことはないよ、響子さん。立派にお返事、出来るじゃないか」
ここで春香は、飛んでもないことを口走った。
 「パパ?このおじいさんが、そういちろうさん?」
 「あ、…いや。その…」
 「春香?この方は惣一郎さんのお父さまですよ」
ことばを失った音無老人に響子が弁解をした。
 「済みません、お義父さま。まだ惣一郎さんのこと、何て教えていいか分からなくて…」
 「まぁ、無理もなかろう。なーに、今に追々、理解できるようになるだろうさ」
音無老人は笑って恕(ゆる)してくれた。
三人は居間に通された。
 「まぁ、楽に楽に」
縁側からは庭がよく見えた。庭には、今年も山吹が色付き始めていた。季(とき)は、音無家にも春を告げていた。
 「あの、お義父さま…」
響子は胸に抱えていた風呂敷包みを解いた。
 「これ、詰まらない物ですが、ご仏前にでも…」
 「いやぁ。いつも気を遣ってもらって悪いねぇ」
 『いえ…』
 「惣一郎さんのお墓参りも、我が家では、年中行事として定着していますから…」
 「そうか…。あいつも、草葉の陰から喜んどるだろうよ」
 「ホントに、ありがとう」
音無老人は深々と頭を下げた。
 「そんな。お義父さま、お顔をお上げになって下さいな」
 「いや。儂(わし)は嬉しいんだよ」
 「惣一郎と死に別れ、再婚した響子さんが、こうして家族揃って会いに来てくれる」
 「何だか家族が増えたような気がしてね」
音無老人は眼鏡を外して目頭を押さえた。
 「お義父さま…」
響子の胸が熱くなった。五代も、やんちゃな春香を押さえながら、神妙な面持ちで聞いていた。
暫くして、音無老人は眼鏡を掛け直すと、煙草を吹かし始めた。
 「それで、五代くん。今日は家で食事して行くだろう?」
 「え?」
 「いえ。そこまで甘える訳には…」
 「そうしなさい。そうしなさい」
 「最近は、郁子も帰りが遅いので、お父さんたら、寂しがっちゃってね…」
郁子の母が、お持たせの菓子と茶を四人に勧めた。春香は甘い物に目がない様子だった。真っ先に楊枝(ようじ)を立てると、あっという間に平らげてしまった。
 「ほら、春香ちゃん。儂のもお上がりなさい」
 「ほんと?」
春香が目を輝かせる。
 「いけません、春香。これはお義父さまの分でしょ」
 「響子さん。いいっていいって…」
 「でもそんな…」
 「儂のような年寄りが食べるより、若い者が食べた方が滋養になるんだよ」
 「…そうですか?では、遠慮なく戴(いただ)きます」
 「ほら、春香?お義父さまにお礼を言いなさい」
 「おじいちゃん、ありがとう」
 「ほほう。ちゃんとご挨拶ができるんだな」
 「これも、響子さんの日頃の教育の賜物だな」
 「いえ。そんなことは…」
 「かっかっかっか…」
すると音無老人は、気が付いたように席を中座した。
 「ちょっと失礼。ご不浄に…」
音無老人は席を立ったまま、なかなか戻らなかった。奥からは郁子の母の声がした。
 「お父さん、またおトイレですか」
 「まぁな」
 「そんな水物も摂(と)ってないんですがねぇ」
 「いや、もう歳だよ」
暫くすると、音無老人が戻ってきた。
 「いやぁ、失敬した。もう歳かな?近くなっちゃって…」
 「そんなに近いんですか?」
 「うん。それに、出にくいって程ではないんだが、最近、どうも違和感があってな」
響子は堪らず言った。
 「あの、お医者さまに診ていただいた方がよくありませんか?」
 「お父さん、どうします?」
郁子の母が茶の替えを持って来た。
 「そうだな。響子さんがそう言うんなら…」
 《相変わらず、身も蓋(ふた)もない一家ね》
 「お父さん、今度区の健康診断があるから、行ってご覧なさいよ」
 「そうだな。そうするか…」
音無老人は少し寂しそうだった。郁子がいないからではない。何というか、人生に見切りが付いたような、諦めのある寂しさだった。五代は、音無老人の表情が気になって仕様がなかった。一刻館に住まわせてもらって、唯でさえ恩義があるのに、こうやって遊びに来れば、家族のように接してくれる。本当にありがたいと感じていた。
 《自分に役立てることはないだろうか?》
音無家からの帰り途、五代は本屋に寄ろうと言い出した。
 『家庭の医学』
これなら、何かしらのことが書いてあるだろうとの、軽い考えだった。
 「泌尿器、泌尿器…。泌尿器は…と」
ページを捲(めく)る五代の目が、はっと一点に留まった。慌てた表情で一気に読み進める五代。そんな五代に響子が不安を覚えた。
 「ねぇ、あなた。何て書いてあるの?」
 「前立腺肥大…いや、もしかしたら前立腺ガンかもしれない」
 「え?そんな!」
響子が目を見開いた。
 「あなた。このこと早くお義父さまに知らせなきゃ」
 「いや。まだはっきりしたことは言えない。素人判断で下手に騒がせるのも好くない」
 「じゃぁ、せめてお義姉さまだけにでも…」
 「うん。それもそうだな」
 「今日はもう遅い。明日、俺が電話するよ」
 「そうして下さる?」
 「あぁ、任せとけ」
そうは言ったものの、五代も不安だった。小水の出が悪いだけなら、前立腺肥大ということが考えられるが、音無老人の話では、下腹部に違和感があるという。違和感というのが非常に気になっていた。
 《恐らくガンなんじゃないだろうか》
しかし五代の口からそうは言えなかった。郁子の母には、泌尿器科の疾患の可能性が高いので、区の健康診断には必ず行くようにとだけ伝えた。五代は、自分が音無老人を裏切っているような、どこか後ろめたい気持ちに苛(さいな)まれていた。
 《初めからガンの可能性があります、とでも言えばよかったんだろうか?いや、それはできない。あんないいひとがガンに蝕(むしば)まれるなんて、信じられない。これは何かの間違いだ。でもそんな精神論でいいのだろうか?もし本当にガンだったら…》
 「君が最初からガンだと言って呉れれば、それなりの対処があったのに!」 そんな声が五代のこころに木霊(こだま)した。眠れない夜が続いた。響子も心配していた。
 「あなた。保育園で何かあったんですの?」
 「いや…」
 「じゃぁ、こないだのお義父さまのこと?」
 「いや…」
 「じゃぁ、一体どうなさったというの?」
 「いや…」
五代の生返事に、響子も付き合いきれないといった表情だった。



三 善悪の彼岸

 「では血液検査をします。ちょっとチクっとしますよ」
中野区の健康診断が行われていた。場所は音無家からすぐ傍の診療所だ。この日集まったのは、揃いも揃って老人ばかりで、検査の内容も老人向けだった。
 「検査の結果は2週間以内にご自宅に郵送されますので…」
無愛想な看護婦は、そう言って音無老人を追い出すように帰した。
 《儂も、愈々(いよいよ)老人扱いだな…》
寂しげな表情で帰宅した老人を見て、郁子の母が尋ねた。
 「あら、お父さん。どうでした?」
 「うん。大した事はなかった。結果も、2週間ほどで分かるって…」
 「そうですか」
郁子の母は忙しいようで、蒲団を持ってバタバタと二階に上がって行った。
2週間後、音無家に健診結果が届いた。老人は封を切ったのはいいが、老眼で良く見えない。
 「おい。これ、何と書いてあるのかな?」
 「どれですか?お父さん。…えーっとね、泌尿器科での精密検査が必要ですって」
 《五代さんの言ったとおりだわ》
 「ほう、そうか」
 《PSA値がこんなに高い。これってそんなに悪いのかしら?》
 「じゃぁ、お父さん。明日にでもお医者さまに行きましょうよ。早い方がいいでしょ?」
 「まぁ、早いことに越したことはないが、ちょっと性急すぎないかね?」
 「だって何(いず)れは行くんですもの。早い方がいいわよ」
 「じゃぁ、そうするか」
郁子の母は、内心祈るような思いだった。
 《どうか父が大した病気でありませんように…》
明くる日。郁子の母と音無老人は、新宿にある大学病院を訪れた。泌尿器科のカルテを作ってもらい、待合室で順番を待っていた。
 「くどいようだが、そんなに急いで診てもらわないといけないものなのかね?」
 「いいじゃないの、お父さん。だって早い方がいいでしょ?」
 「しかしなぁ…」
 ピンポン…。
 「音無さん、診察室までお入りください」
 「ほら、お父さん。行きましょう」
医者は健診結果をじっと見詰めてから、徐(おもむ)ろにゴム手袋を嵌(は)めた。
 「音無さん。下着を脱いで、膝(ひざ)を曲げた状態で横になっていただけますか?」
 「こうですかな?」
 「はい。それでは力を抜いて下さいね」
 「は?」
医者は人差し指でローションを掬(すく)うと、そのまま指を肛門に入れて、ぐりぐりと内側をなぞった。
 「痛!イタタタ!」
それでも医者は止めなかった。そして何か目標物らしきものを探し当てると、執拗(しつよう)にその周囲を押していた。
 「先生!い…痛いです!止めて下さい!」
医者は漸(ようや)く肛門から指を抜くと、手袋を廃棄し、カルテにペンを走らせた。
 「音無さん。お小水の出が悪くなったのは、いつ頃からですか?」
 「さぁ…。腰も相当痛かったので、冬くらいだとは思いますが…」
 「そうですか」
言うが早いか、医者は看護婦に指示を出した。
 「超音波。CT。それから生検(せいけん)も発注して…」
 「はい」
医者は、カルテにいろんなスタンプを押しては、何か書き込んでいた。
 「それから、今日は血液検査をします。隣りの処置室に行って下さい」
 『ありがとうございました』
隣りの処置室では、若い看護婦が優しく血液を採取してくれた。
 「音無さん。ちょっとチクっとしますけど、大丈夫ですからねぇ」
そう言いながらも、採血管3本も血を採られてしまった。
 「はい。次は超音波を撮りますから、こちらに描かれた場所に、このカルテを持って行って下さいね」
音無老人は、言われるとおりに超音波室に行った。
 「はい。じゃぁ、下着を脱いで仰向けに寝て下さい。ちょっと冷たいかもしれませんけど、吃驚(びっくり)しないで下さいね」
検査技師は音無老人の下腹部にローションを多めに塗ると、マイクのような器機をぐりぐりと押し当てた。
 「痛い痛い!もうちょっと優しくやってもらえんかね?」
 「はい。直ぐ済みますのでね、じっとしてて下さいね」
検査技師の反応は淡々としたものだった。検査が終わると、検査技師は下腹部のローションをティッシュで丁寧に拭(ふ)き取った。
 「はい。超音波は終わりです。では次にCTを撮りますから、こちらに描かれた場所に、このカルテを持って行って下さいね」
 《何処(どこ)も彼処(かしこ)も、まるで判で押したような対応だな》
音無老人は、言われるとおりにCT室に行った。こちらは未来的な雰囲気の部屋で、ベッドの周りに大きなドーナツ状の輪っかがある奇妙な機器があった。
 「では、検査着に着替えてベッドに寝て下さい」
 「あ、それから、下着は脱がなくて結構です」
 《やれやれ、今度は脱がなくても大丈夫なのか》
音無老人はベッドに横たわるとプラスチックの器具で下半身を固定された。
 《これじゃ、まるで囚人だな》
 「それじゃ、音無さん。撮影を始めますので、動かないで下さいね」
ベッドがスライドして、先程の輪っかが下半身の位置に固定された。
 ウィーン、カチカチ、ウィーン…。
今度は痛みも何もないので楽だったが、囚われの身という印象が強かった上、頭の中で物凄い騒音が鳴り響いたのが不愉快だった。2−30分程経っただろうか、先程の検査技師が部屋に入って来て、拘束具を外してくれた。
 「お疲れさまでした。では最後に生検を行いますので、このカルテを持って、こちらに描かれた場所に行って下さい」
 《一体、何遍検査するのだろう?》
音無老人は諦めて、言われるとおりの場所へ行った。そこはちょっとした手術室だった。入口で問診表のような物を書かされた。飲んでいる薬はないかとか、薬を飲んで気分が悪くなったことがないかとか、面倒くさい内容だった。全て書き終えて受付に渡すと、簡単な手術が始まった。手術といっても、下半身に麻酔をかけて小さな孔を開け、器具を挿し込んで肉片を採るだけだった。あまりに呆気(あっけ)ないので、身構えた自分が愚かしく思えた。
こうして音無老人の長い一日は終わった。検査の結果は3週間後だという。やっぱり娘の言うとおり、早く行ったのが正解だったと音無老人は思った。
そして3週間後。
 ジリーン、ジリーン…。
 「はい。音無でございますが…」
 「こちら大学病院ですが、音無さんのご家族の方ですか?」
 「はい。私、音無の娘ですが、父が何か?」
 「えぇ。先ずはお気を確かにしていただきたいのですが…」
 「…音無さんは前立腺ガンです」
 「え…。」
郁子の母は、受話器を持ったまま暫く放心状態になった。
 「音無さん、音無さん?大丈夫ですか?音無さん?」
 「は、はい。済みません。それは手術で治るんですか?」
 「…いえ。申し上げにくいんですが、高齢の方は手術が難しくて…」
 「そんな…。じゃぁ、父はあとどのくらい生きられるんですか?」
 「…年内くらいではないかと…」
 「年内…」
 「はぁ。それでこのことをご本人に告知すべきかどうかと思いまして…」
郁子の母は悩んだ。音無老人は昔から朗らかな性格だった。大概のことは軽く流してしまうだろう。でも今度はガン。生死が問われる。どうしたらいいんだろうか?
あまりに沈黙が長かったので、医者の方から訊いてきた。
 「あの、音無さんはインテリジェンスでいらっしゃいますか?」
 「こないだお会いしたときも、そのような印象をもったのですが…」
 「はい。父はインテリジェンスだと思います」
 「そうですか。それでは告知なさることをお薦めしますが、如何でしょうか?」
 「…分かりました。では今週、父を連れて伺います」
 「ではそのときに、この間の検査結果を基にご説明いたしますので…」
 「…はい。態々(わざわざ)ご丁寧にありがとうございました」
 「いえ。それでは失礼します」
 「…はい。失礼いたします」
 チン…。
郁子の母は思い議(めぐら)せた。夫に相談するか?いや、相談しても、父がガンであることに変わりはない。
 《どうすれば…、どうすれば…》
 「何かね、随分と長い電話だったようだが…」
新聞を手にした音無老人が、電話の前をふと通り掛かった。
 「あら、お父さん。ごめんなさい。長電話には気を付けます」
何も知らない音無老人の顔は、神々しい程に穏やかだった。郁子の母は、音無老人に話さないことを決めた。



四 噂

あれから郁子の母は、ガンのことを誰にも話さなかった。だから郁子も夫も、勿論本人も、いつもと変わらぬ生活を送っていた。しかし音無老人の頻尿は、傍(はた)から見てても、目にあまるようだった。郁子も盛んに心配していたし、夫からは検査結果を聞かれたりもした。でも郁子の母は、大丈夫ということばを繰り返していた。そんな日も束の間、診察の日がやってきた。
 ピンポン…。
 「音無さん、診察室にお入りください」
遂にそのときが来た、と郁子の母は覚悟した。
 「えーと、音無さん。この間の検査の結果なんですが…」
 「はい」
 「指診(ししん)の結果、腫瘍(しゅよう)らしいものが確認されましてね、超音波、CT、何れも結果は陽性でした」
 「それで生検病組織検査を行った結果ですね、腫瘍は悪性ということが判明しまして…」
 「あのー、つまり儂の頻尿の原因は、何なんですかな?」
 「…はい。大変申し上げにくいんですが、結論を申し上げますと、前立腺ガンです」
 「ガン…」
一瞬、時間が止まったような気がした。音無老人は小さな溜(ため)息を吐(つ)くと、遠い目になった。
 「妻に先立たれてこの方、今まで生き恥を晒(さら)してきましたが、やっとお迎えが来たんですな」
 「残念ながら、我々は年内が限度と考えております」
 「妻が逝き、惣一郎まで亡くなって、娘や孫に世話になる毎日。これでやっと、ほっとしましたよ」
 「お父さん!」
郁子の母が縋(すが)るような目で音無老人を見た。
 「こら。そんな顔をする奴があるか。順番なんだよ、順番」
音無老人は次の瞬間、ふっと表情を緩ませた。
 「とは言っても、惣一郎(あいつ)は、順番を守らなかったがな」
 「先生!何とか助かる手立てはないんですか!」
 「先ず考えられるのは、前立腺の摘出です。しかし音無さんのような高齢の方になりますと、手術の負荷に耐えられないことがあります。それに骨などに転移している可能性も考えなければなりません。そうなると、音無さんの場合、もう手の施しようが…」
 「他に方法はないんですか?」
 「後は抗ガン剤による延命処置しか…。我々が出来ることは、これが限度です」
 「そんな!」
 「しかし例えば東京慈恵会医科大学でしたら、小線源療法というものが行われていると聞いています」
 「小線源…?」
 「はい。シャープペンシルの芯(しん)のような細い放射能を前立腺に80本ほど刺し込むんです」
 「被爆の危険性はないのでしょうか?」
 「放射能にはヨウ素125というものを使います。シャープペンシルの芯ほどの大きさなので、周囲のひとに影響することはありません。また直腸や膀胱(ぼうこう)に与える影響も少なくて済みます」
 「しかも、これは一年経つと放射線を出さなくなるんです」
 「じゃぁ、その方法を使えば、父は助かるんですか?」
 「それは分かりません。ただ学会では、80%以上の生存率が報告されています」
 「先生、お願いします!ぜひ紹介状を書いて下さい!」
 「それは構いません。但し、小線源療法は保険医療の適用外になります」
 「え?」
 「つまり健康保険が効かないってことです」
 「それっていくら位するものなのでしょうか?」
 「かなりの額が必要ですね」
病院からの帰り途、郁子の母は悄然(しょうぜん)としていた。紹介状を書いてもらったのはいいが、高額な治療費が払えるのだろうか?音無家は代々の資産家ではあるが、その殆(ほとん)どが不動産で占められている。預貯金や有価証券などの蓄財は一般家庭並だ。こうなったら、土地や不動産を売却せねばならない。郁子の母の気は重かった。
 「お父さん。土地でも売りましょうか?」
 「先祖代々守り抜いてきた土地だ。おいそれと他人の手に渡るのは、あまり愉快なことじゃないな」
 「お父さん、でも…」
 「まぁ、そうだな」
 「母さんも惣一郎も逝ってしまった。儂の財産を相続するのは、もうお前だけだ」
 「だから、お前が土地や不動産を売却するのも、お前の勝手だ」
 「お父さん…」
 「だが儂の我がままも、少しは聞いてはもらえまいか?」
 「儂の遺言だと思って…」
 「お父さん。遺言だなんて、そんな…」
 「いや、前から書こう書こうとは思っとったんだよ」
 「今度、いつもの弁護士さんに来てもらおうと思っている」
 「それでいいかな?」
 「いいも何も、お父さんがすることですもの」
 「異論はないんだな?」
 「えぇ」
音無老人は安心したようだった。微笑んだ顔が印象的だった。
音無老人の知らせは、五代一家にも直ぐ伝わった。それを聞いて、一番悔やんだのは五代だった。
 《やっぱりあのとき、はっきりガンの可能性があると言っておけば…》
しかし五代の進言のお蔭で、ガンが発見できたのだ。決して五代が悪い訳ではない。また響子の心痛も甚だしかった。
 《あのお義父さまが、ガンになるなんて…》
春香は訳が分からずキョトンとしていたが、何か好くないことが起きたことだけは認識できた。
思い起こしてみると、その噂が広まったのは、その頃からだった。
響子はいつものように庭掃除をしていた。最近では葉桜が眩(まぶ)しくなり、また枯れ落ちた松葉が目立つようになった。庭掃除の時間は、近所の主婦たちとの井戸端会議の時間でもある。今日も近隣の主婦たちに一の瀬が加わり、噂話に花が咲いていた。そのときひとりの主婦がこんなことを言い出した。
 「響子さん。一刻館が売りに出されたってホント?」
 「え?一刻館(ここ)が売りに?」
 「えぇ。何でも大家さんが手放すことに決めたんですってよ」
 「そんな。あたし、音無からは何にも聞いてませんけど…」
 「そりゃぁ、大家さんだって、言いにくいんじゃないの?」
 「そうでしょうか?」
それを聞いて驚いたのは響子だけではなかった。一の瀬は、煙草を持ったまま、呆然(ぼうぜん)としていた。
 「ねぇねぇ?一の瀬さんは何か聞いてないの?」
 「そうよ。お宅、そういうことに詳しいんじゃない?」
 「そんなこと、あたしが知る訳ないじゃないのさ!」
 「そう?」
 「だって、住人に挨拶くらいあったんじゃないの?」
 「そんなの、あたしらが訊きたいよ!」
一の瀬の反応に近隣の主婦たちは呆(あき)れ顔だった。そこへダークグレイのトレンチコートにアタッシュケースを持った四谷が帰って来た。四谷は相変わらず慇懃(いんぎん)だった。
 「管理人さん。ただいま帰りました」
 「お、お帰りなさい」
今日の四谷の様子は普段と違っていた。それとなく近隣の主婦たちを牽制(けんせい)すると、囁(ささや)くように響子に耳打ちした。
 「あの、管理人さん。ちょっと妙な噂話を小耳に挟んだんですが…」
一の瀬も詰め寄って声を潜める。
 「四谷さん、どんな話だい?」
 「いえ、単なる噂ならばいいのですが…」
 「何でしょう?」
 「…一刻館が取り壊されると…」
 「四谷さん、それはどっから聞いたんだい?」
 「はい。私の仕事仲間です」
 「確かな筋の情報です」
一の瀬は考え込んでしまった。近隣の主婦たちも、雰囲気を察して退散した。
前にもこんなことがあった。三越とかいう男が3号室に引越して来たときだ。あのときは、その男がマンション用地の探し屋を請け負っているということだった。一刻館取り壊しの噂も、彼が流したものだ。しかし今回は状況が違う。外部の人間が介入しているとは、どうしても考えられなかった。
 「とにかく、管理人室でゆっくり伺いましょう」
三人が一刻館に入り、ピンク電話の角に差し掛かったときだった。
 ジリーン、ジリーン…。
ドキッとする響子に呆れて、一の瀬が電話に出た。
 「はい。こちら一刻館…」
 「かあちゃん、だいじょぶか?」
 「賢太郎かい?珍しいじゃないのさ。何か用かい?」
賢太郎は大学合格後、念願の一刻館脱出を図り、行徳で独り暮しを謳歌(おうか)しているのだ。
 「用かい?じゃないよ。一刻館が競売(けいばい)に掛けられたってホントか?」
 「何だって?」
 「競売だよ。一刻館が売りに出されてるって…」
横で漏れ聞いていた響子と四谷は互いに目を見て頷(うなづ)いた。誰かが一刻館売却の噂を流している。近隣だけではなく、都心を越した行徳まで話が伝わっていることからも、事態は明らかだった。
 「とにかく、音無の家に電話で確かめてみます」
響子は管理人室に入ると、電話を掛け始めた。
 ツー、ツー、ツー、ツー…。
話中だ。かといって、今から直接音無家に押しかけるのも、常軌を逸している。
   「どうしましょう?どうしましょう?」
 「どうしましょう?って言ってもねぇ。電話が繋がらないことにはしょうがないし…」
 「そうですな。まぁ、ここは暫くガマンの子…」
響子も一時の感情が落ち着いてきた。
 「そうですわね。主人が帰ってきてからでも、構いませんわよね」
一同は取り敢えず五代の帰りを待つことにした。



五 音無氏の遺こすもの

 「ばうー、ばうばう」
 「ただいま」
 「お帰りなさい」
 「お帰りー」
 「お帰りなさいませ」
唯ならぬ雰囲気に五代は戸惑った。住人一同が五代を出迎えたのだ。
 「ど、どうしたの?」
 「あなた!とにかく部屋へ!」
響子に言われるまま、五代は響子に従(つ)いて行った。
 「何!?一刻館が取り壊される?」
五代は大声を上げた。
 「パパ、なあに?うちがこわされるの?」
春香が反応した。五代は焦りながらも、春香を宥(なだ)めた。
 「いや、何でもないよ。大丈夫だから、ね?春香」
 「うん♪パパ?じゃぁ、ごほん、よんでぇ♪」
 「ごめんね、春香。今、パパたち、大事なお話をしているんだ」
 「後で読んであげるから、もうちょっと待っててくれないかな?」
 「うん♪きっとね♪」
 「あぁ」
 「じゃぁ。ゆーびきーりげーんまん♪」
 『うそついたら、はりせんぼん、のーます。ゆびきった♪』
五代はまんまと春香に読み聞かせを約束させられてしまった。
 「ところで響子。その取り壊しっていうのは、どういう?」
響子は、今日あった出来事を具(つぶ)さに五代に説明した。
 「しかし、拠りによって何でそんなことが…」
今回の噂は今ひとつ解せなかった。
 《誰が何の目的で流したのか?》
 「とにかく、音無の家に電話をしてみよう」
 「えぇ。そうして下さる?」
 プルル、プルル、プルル…。
 「もしもし、音無ですが…」
 「夜分に済みません。五代ですが…」
 「よぉ、五代くん。どうした?今時分に」
 「はぁ。それが、妙な噂を耳にしまして…」
 「妙な噂?何だね?それは」
 「実は、一刻館が取り壊されて、売りに出されると…」
 「そんなバカな。誰がそんなことを…」
 『はぁー』
五代たちは取り敢えず胸を撫で下ろした。
 「それにしても、何でそんな噂が流れたんでしょう?」
 「うむ。それは儂に原因があるのかもしれないな」
音無老人は、手術には相当な金が必要なこと、音無家の資産はその殆どが土地や不動産であること、治療のためにはそれらを売却しなければならないことなどを五代に話した。
 「なるほど。それで資産の一部を売却するという話が、何故か一刻館に…」
 「恐らく、そんなとこだろう」
 「でも何で一刻館(うち)が?」
 「まぁ、一刻館(そこ)はいろいろと問題も多いしな」
 「……」
 「いやいや。五代くんがどうとかという話じゃないよ」
 「住人は変わったのが多いから…」
 「かっかっかっか…」
 「そうですか。では一刻館(うち)が取り壊されるというのは、根も葉もない噂なんですね」
 「そりゃそうさ。安心したまえ。儂の目の黒い内はそんなことはさせんよ」
響子の顔が明るくなった。
 「それより五代くん。今度の日曜日、大事な話があるから、一度響子さんと家に来てもらいたいんだが、どうかね?」
 「はい。喜んでお伺いします。それで何時頃お伺いすれば…」
電話をする五代の横で、響子が五代の袖を掴みながら、心配そうな面持ちで見る。
 「はい…はい。はい、分かりました」
 「それでは、夜分に失礼致しました」
 チン…。
五代は弱った顔をして見せた。
 「今度の噂もガセだって…」
 「じゃぁ、どこから流れたんでしょうねぇ?」
 「うん。それは音無の家に行けば、きっと判ると思うよ」
五代の顔は確信に満ちていた。響子は訳が分からないながらも、五代の顔を見て少し安心した。
そして音無家。
 「それでは音無さま、これを正式な文書として、家庭裁判所に検認の手続きをさせていただきます」
 「はい。宜しくお願いいたします」
音無家の応接間では、音無老人と顧問弁護士が何やら文書を交わしていた。郁子の母ですら茶を出しただけで、断りがあるまで入室を禁じられていた。弁護士が恭しく文書を持って部屋から出ると、音無老人は郁子の母を呼んだ。
 「お父さん。弁護士さんなんて呼んで、一体何だったんですの?」
 「まぁ、これからゆっくり話すから、皆を居間に呼んでくれないか?」
居間に郁子の両親と郁子が集まった。
 「そんな畏(かしこ)まった話じゃないんだ」
 「とにかく楽に楽に」
 「それでお父さん、お話っていうのは?」
 「あぁ…。そろそろ五代くんたちも来る筈なんだが…」
そこへ玄関の引き戸が開く音がした。
 ガラガラ…。
 「ごめんください」
 「ほーら、来た来た」
音無老人は立ち上がると、五代たちを出迎えた。
 「よぉ、五代くん。無理を言って済まなかったねぇ」
 「いえ。そんな…」
 「ではお邪魔します」
 『お邪魔いたします♪』
これで郁子の両親と郁子に五代一家が加わった。音無老人は軽く咳(しわぶ)くと、訥々(とつとつ)と話し始めた。
 「儂がガンだということは、皆も知っていることだと思う。しかも通常の方法だと、儂は手術ができない」 五代と響子は固唾(かたず)を飲んだ。
 「だが一部の病院で、最先端医療が行われると聞いている。その最先端医療には、金がかかるらしい」
 「そこで…」
 「あのお義父さま」
響子が思わず声を上げた。
 「あの、今までお義父さまにお渡ししようと思っていた納入金のことなんですが…」
 「あぁ。あれは要らないから、あんたたちで遣ってくれて構わないと言った筈だが…」
 「はい。それはそうなんですけど、実はこの6年間の納入金は全て、貯金していたんです」
 「ほう…」
 「それで今日、通帳と印鑑を持参しました」
 「このお金で、いくらかでも治療費の足しにしていただきたいと思いまして…」
 「響子さん、ありがとう」
 「でもね、治療費は桁(けた)が違うんだよ」
 「え?じゃぁ…」
 「気持ちは嬉しいんだが、これはやっぱりあんたたちが遣いなさい」
 「済みません。お義父さま、お力になれなくて…」
 「いや。いいんだいいんだ」
音無老人は、話を続けた。
 「そこで非常に残念ではあるのだが、先祖伝来の土地を手放すことに決めた。しかし都心の土地では却って高すぎる。それで郊外の休耕地などを中心に、不動産業者と折衝を続けていたんだ」
 「そのリストの中には、一刻館も含まれていた。恐らく一刻館売却の噂は、不動産業者に拠るものだろう」
 「勿論儂は、一刻館をリストから外すようにお願いした。その点は安心してくれたまえ」
五代と響子は、事の顛末(てんまつ)が解明され、ほっとした表情を見せた。
 「それで売却するのは、小松川の休耕地にしたいのだが、どうかね?」
 「そうですねぇ。あそこだったら、戦後の混乱で何となく家の土地になった所ですし…」
郁子の母は同意した。
 「へぇ。そんな所にも家の土地ってあったの!」
郁子が感心した。
 「そうよ。家の基盤は多摩なんだけどね。あそこはお父さんの戦友だった方の土地だったの」
 「その方は結局天涯孤独のまま戦死されて、お父さんに後を託されたのよ」
 「ふうん…。あるとこにはあるもんだ」
 「これ、郁子。そんな言い方するもんじゃありません」
 「はーい」
 《なるほど。行徳まで噂が飛び火したのも、小松川の土地が原因だったのか》
 「それでお父さん?今日の弁護士さんは一体何のご用だったんですか?」
 「うん。そのことなんだが…」
音無老人の表情に緊張が走った。



六 微笑みの寿老人(じゅろうじん)

 「今日、いつもの弁護士さんに来てもらったのは、遺言の代理人をお願いしたんだ」
 『遺言の代理人…?』
 「今回の一件で、儂もいつお迎えが来るか分からないことを実感した」
 「母さんも惣一郎も亡くなってしまった今、もし儂に万が一のことがあれば、法定相続人はお前たち夫婦だけになる」
 「ママ、凄いじゃない。全部うちのものになるのよ」
 「これ、郁子!」
 「だが、儂もいろいろ考えて、遺言を代理人に託すことにした」
 「それがさっきの弁護士さんね」
 「そうだ」
 「遺言の効力が発生するのは、勿論儂が死んでからということになる。だが、その前に皆に知っておいてもらった方がいいんじゃないかと思ってな」
 「おじいちゃん、それってどんな内容なの?」
 「あぁ」
そう言って音無老人は、一同の顔をひとりひとり見た。
 「実は一刻館の名義を五代くんにしたいんだ」
 『え?』
五代と響子は顔を見合わせた。
 「五代くん。今回の一件では、君には本当に世話になった。礼を言うよ」
 「そ、そんな。飛んでもない…。僕は、単に健康診断に必ず行くように言っただけで…」
 「そのお蔭で儂のガンが見付かったんだから」
 「でもお義父さま?私たち一刻館(あそこ)に住まわせていただいているだけで、とても有難いことだと思っているんです。それを戴いてしまうなんて、とても…」
 「いや、いいんだよ。響子さんには、もうかれこれ10年以上も管理人をやってもらっている。変な住人が多い中、本当に大変だったと思うんだ」
 「いえ。そんなこと…」
 「それにね、あの住人たちがあんなに懐(なつ)いた管理人は、そう探したっているもんじゃない。できれば、このまま管理人を続けてもらいたいんだよ」
 「はい。それはもう、ご期待に添えるよう頑張ります」
 「だから一刻館の名義変更は、そういう意味も含まれていると考えてくれんかね?」
 「あの、本当にいいんでしょうか?」
 「僕たち、音無家とは縁も所縁(ゆかり)もないんですよ。それなのに財産分与だなんて…」
 「五代くん。この間も言ったろ?君たちは家族みたいなものだって…」
 「でも、それとこれとは…」
 「一緒だよ。これは儂のせめてもの気持ちだ」
 「快く受け取ってもらえんかね?」
響子は音無老人のこころのあたたかさに、胸が熱くなった。こんな場所で泣いてはいけないと思いつつ、涙が頬(ほお)を伝うのが感じられた。
 「お義父さま…」
 「響子さん。これでいいんだよ、これで…」
 「有難うございます」
 「そうか。解ってもらえたか…」
 「はい。お義父さんの恩義は、この五代裕作、一生涯忘れません」
 「ほら。響子…」
俯く響子を五代が優しく促した。
 「お義父さま、ありがとうございます」
 「あたし、頑張ります」
 「うん、うん。それでいい、それで…」
音無老人は満面の笑みを浮かべた。こころの底から満足している様子が窺えた。
 「それじゃぁ、一刻館の一件は五代くんの名義にすることで、皆、異存はないかな?」
 「私はいいですよ、お父さん」
 「私も!」
 「これ。郁子は関係ないでしょ?」
 「えへへ」
 「君はどうかね?」
音無老人は、終始黙っていた郁子の父に水を向けた。
 「私は、お義父さんがそう思われるのでしたら、異存など…」
 「そうかそうか。いや、有難う。ホントに有難う」
音無老人は、緊張の糸がぷっつり切れたように、軽く俯いた。
 「いや…。これで儂の念願が叶った」
 「何だか、ほっとしてしまったな…」
音無老人はそう言うと、遠い目で庭の方を眺めた。庭の山吹は彩りも鮮やかで、その花は生命力に満ちていた。蒼穹(あおぞら)はどこまでも遠く、雀(すずめ)たちが楽しそうに戯れていた。
 「惣一郎も、良い家族を遺してくれたもんだ…」
するとさっきまで大人しくしていた春香がもぞもぞとしだした。春香は小声で響子に耳打ちした。
 「ママ、おしっこ」
 「あら、大変。春香、こっちにいらっしゃい」
 「響子さん、大丈夫?」
 「はい。済みません、お義姉さま」
 「おじいちゃん、これで一件落着だね」
 「あとは郁子がお婿さんを貰ってくれればな」
 「それは言わないでよー」
 「かっかっかっか…」
 「それじゃぁ、お父さん。今日はお寿司でも取りましょうか」
 「そうだな。そうするか」
 「えーと、亀寿司の電話番号は…」
 「いえ。僕ら、これでお暇(いとま)しますから」
 「いいじゃないの、おにいちゃん。一緒にお寿司、食べよ」
そこへ用を済ませた響子と春香が戻ってきた。
 「済みませんでした。何かバタバタしちゃって」
 「構わん構わん」
 「はい。それじゃぁ、上を6人前。それから子供用にさび抜きを半人前、握っていただけるかしら?」
 「あら、お義姉さま。私たちは本当にもう…」
 「あら、いいじゃないの。今日はおめでたいんだから…」
 「そうだよ、響子さん。遠慮するこたーない」
 「ありがとうございます」
こうして日曜の夜は更けていった。
一ヶ月後。春香が寝静まった夜、響子が五代に茶を淹(い)れていた。
 「昨日、お義父さまの手術の日だったんですって」
 「あぁ、もしかして、さっきの電話?」
 「えぇ。手術っていってもね、何かあっという間に終わったそうよ」
 「明後日には退院ですって」
 「へぇ。やっぱり最先端医療ってのは、凄いんだねぇ」
 「お義父さまの手術、うまくいってるといいわね」
 「そうだな。音無のじいさんには、ホント世話になりっぱなしだもんな」
 「そうだ!明日、保育園が終わったら、じいさんのとこにお見舞いでも行くか?」
 「そうね。そうしましょう」
次の日、響子は、春香を幼稚園に迎えに行った帰り、商店街でお見舞いを選んでいた。
 「春香?今日はこれから、お義父さまのお見舞いに行くのよ」
 「お見舞いは何がいいかしらね?」
 「はるか、おかしがいい♪」
 「お菓子?でもお義父さま、甘い物はあまり召し上がらないから…」
 「お花も平凡過ぎるし…」
 「そうだ!ママ、メロン!」
 「あなた、さっきから自分が食べたいものばかり言ってない?」
 「えへへ…」
響子はふと、店先に陳列されたある物に目が行った。
 「あ!これがいいわ!」
 「ママ、なに?これ」
 「いいものいいもの」
響子は至極嬉しそうだった。綺麗(きれい)に包んで、熨斗(のし)にはお見舞いと書いてもらった。
 「ただいまー」
五代が帰って来て、三人は早速お見舞いに出掛けた。
 「あれ?響子。お見舞いの花とかはないの?」
 「うふふ…。はい、これ。中味は開けてからのお楽しみよ」
 「何だ?勿体(もったい)ぶって。随分小さな箱だな」
 「小さくてもいいのよ」
 「ふうん…」
そうこうしているうちに三人は病院に着いた。
 「あの、音無さんの病室はどちらでしょう?」
 「あぁ、音無さんでしたら、突き当りを左に曲がった先の部屋です」
 「ありがとうございます」
三人が廊下の突き当りを曲がると、郁子たちが談笑する声が聞こえてきた。
 「ここね」
 「どうも。お加減は如何ですか?」
 「あ!おにいちゃん!」
 「やぁ、春香ちゃんも…」
 「失礼いたします」
 「さぁ、春香。お義父さまにご挨拶なさい」
 「おじいちゃん、こんにちは」
 「ハイ、こんにちは」
 「いやぁ、春香ちゃんは偉いな。お利口さんだ」
 「それでお義父さま?お加減は如何ですか?」
 「うん。順調だそうだ。手術も大したことなかったし、病院にいる必要なんてないくらいだ」
 「それはようございました」
 「それで、今日はお見舞いを持って来たんですけど…」
響子はにこにこしながら、小さな包みを差し出した。
 「いや、悪いな。響子さん」
 「いえ。ほんの気持ちです」
 「開けてもいいかね?」
 「えぇ。どうぞ」
音無老人が包みを開けると、中には親指ほどの寿老人の起上がり小法師(こぼし)があった。
 「ほほう、起上がり小法師か…」
音無老人は寿老人の頭をちょんと押した。寿老人はぐぐっと倒れたが、直ぐに起上がって、左右に揺れた。
 「七転び八起き、か…」
 「えぇ。お義父さまの恢復(かいふく)を祈念して…」
 「いや、響子さん。有難う。有難う」
音無老人は寿老人の頭を押しては、満足そうに頷いていた。
 外はすっかり日暮れて、病室の灯りがあたたかく耀いていた。病院の紫陽花(あじさい)も緑に色付き、梅雨がすぐそこまで来ていることを告げていた。(完)